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総評

ネットワーク環境発達によるダウンロード販売の一般化と、大手メーカー各社のインディーズ取り込みにより、据え置き業界参入のハードルは年々低下し続けている。

2019年は、そうした時代を象徴する一年となった。

話題に上った6作品すべてが、ロープライス帯のインディーズ作品だったのである。
最低限のリソースすら欠如した集団が生み出した魔物による頂上決戦は、フルプライス作品では到底手の届かない遥かな低みに至り、ゲームとして呼ぶべきかすら怪しい汚物たちによる地獄の殴り合いが繰り広げられることとなる。

クソのバトルロワイヤルを制して見事大賞の座を勝ち取ったのは、『サマースウィートハート』であった。

魅力的な美少女たち、実力派の声優陣、そして何より、明確に「ゴール」が示されているそのゲーム性。
ひとさじの希望が混入することによって、絶望がさらに威力を増すのだということを、サマスイは我々に教えてくれた。

ゲーム業界の大きな変容は、KOTYスレにも無視しがたい変化をもたらした。
果たしてスレ住民は新たな時代に適応できるのか。
2020年は、まさに試練の年となった。

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2020年最初の訪問者は『Kentucky Route Zero: TV Edition(ケンタ)』。Switch版、PS4版共に1月末の発売ながら、選評到着は4月と遅れる展開になった。

それもそのはず。
本作は2013年に『Rock,Paper,Shotgun』よりGOTYを授与され、全5章に分けて配信されたそのすべてがメタスコアで80点以上を獲得している文句なしの名作である。
このようなゲームにスレ住民が興味を示すわけもなく、報告が持ち込まれるまでは話題になることすらなかった。

ではそのような名作がいかにして航路上で腐敗し変わり果てたのか……それは本作独自の性質と、これを完膚なきまでにぶち壊した翻訳の杜撰さによる。

『Kentucky Route Zero』は「究極の雰囲気ゲー」である。
今作の主軸となる物語は、平凡な人間の取り留めのない日常の積み重ねだ。これを彩るのは抽象的でありながらも精緻なアニメーションと、現実、非現実が当然に同居している『マジック・リアリズム』の導入、適切なペースで挟み込まれる選択肢の数々。

そして何より、視点はおろか体裁すらも多彩に変化し、その一字一句に至るまでが演出として活かされている独特のテキスト。

緻密に設計された作品全体に漂う独特の雰囲気こそが、本作のストーリーテリングの手段なのだ。

翻って、本作は大まかなプロットを見ただけでは、その素晴らしさは理解できない。
演出を埋もれさせないために敢えてプロットレベルでの起伏は抑えられており、分かりやすい起承転結からも距離を置いている。
ゆえに物語の概要をかいつまんだだけでは、平坦で平穏な人々の営みに「談笑する骸骨」や「家を運ぶ大ワシ」が闖入する、退屈と不条理がごちゃ混ぜになったカオスしか見えてこないのだ。

それを台無しにする翻訳の低劣さとは、一体どのようなものか……

華氏やフィートといったなじみの薄い単位、「A/C」のような日本的でない略記がそのまま用いられているのはまだいい。
文学的表現を台無しにする無粋な直訳や、言語としての体裁すら崩壊した機械翻訳の数々、更には単純な誤訳までが頻発し、人物の口調や文体までがごちゃごちゃに入り乱れ、主人公の名前すら表記にブレが生じている有様。
挙句のはてに誤字脱字までが頻発しており、翻訳以前の問題として、日本語の文章としてろくに推敲されていないのが明白である。

いや、そもそも翻訳の「ひどさ」は本質ではない。

この作品の日本語化は、さながらカントリーミュージックを日本語に直すようなものだ。
単に歌詞を教科書的に「翻訳」するだけでは意味がない。
リズムや言い回しに含まれた意味を全て拾い上げ、邦楽として新たに作詞しなおす、そのように繊細な分解と再構成が求められるその作業であったはずなのに、実際は上述の通りである。

致命的な誤訳、珍訳、直訳の数々を乗り越え、どうにかその元の意味を読み解いたところで、個性的な「マジック・リアリズム」の不可思議に耽溺することはできず、理解困難な混沌が、プレイヤーの脳を揺さぶりつづけるだけだ。

選評到着後、致命的珍訳部分は若干の改善を見たものの、結局この作品の雰囲気をよみがえらせるには程遠い水準にとどまった。

かくしてGOTYに輝いた不朽の名作が、2020年KOTY門番の座を勝ち取ったのである。

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2020年度の2番手はPlaystige Interactiveから発売された『Dreaming Canvas(ドリキャン)』だ。

その性質はただ一言、「無」である。
もはや毎年恒例となった低価格虚無ゲーの到来であるが、今年の虚無はなかなかにレベルが高い。

何しろプレイヤーのやることが、
1.マップをうろつく
2.キャンバスを見つける
3.表示された映像の色調を補正する
以上である。

他にできるのはフィールドに隠された名言を見つけたり、会話もできないNPCをにらみつけてトロフィーを獲得する程度。
本作の販売ページには「夢の風景を描く」と紹介されているのだが、誇大広告と言わざるを得ないだろう。

この隠された名言の方も訳が今一つ。

例えばポール・セザンヌの「Painting from nature is not copying the object.」を、この作品はこう訳す。
「自然からの絵画はオブジェクトをコピーすることはありません」
原文をそのまま載せたほうがマシであろう、見事な直訳だ。

根幹であるお絵描き要素がスマホのカメラアプリ未満の自由度しかなく、馴染みのない表記がされる外国人の名言も心に響くことはない。
超えるべき障害物もないのになぜかジャンプ機能を搭載してるあたりも、却ってこの作品の虚無性を強調しているかもしれない。

他の追随を許さない圧倒的な虚無性が認められ、ドリキャンは本年2作目の話題作入りを認められた。

ちなみに、先述したセザンヌの名言には続きがある。

「It is realizing sensations.(それは感動を具現化することなのだ)」

もはやこれ以上は語るまい。

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ドリキャンの選評到着直前、スレ住民の注目はある作品に集中していた。

その名は『ファイナルソード(ファイソ)』。

発売前より見た目のチープさから注目が集まっていたこの作品は、発売されるとその見た目にたがわぬ低クオリティぶりによってスレの話題を席巻し、否応なく選評への期待が高まった。
BGM無断使用問題により4日で配信停止と相成ったにも関わらず、そのわずかな期間に本作を購入したプレイヤーからのプレイ報告も続々と到着し、10日後には無事選評が到着、その真の姿が詳らかにされた。

最初に言及すべきなのは、プレイヤーキャラの仕様に関しての作り込みだ。
グラこそチープだし、モーションも今一つ爽快感にかけるものだが、アクション自体はしっかりと基本を押さえている。
隙の少ない弱攻撃、敵を怯ませやすい強攻撃、様々なスキルや魔法を取り揃えている。射撃魔法使用時はカメラがTPSのように遠方へ集中するので比較的遠距離での交戦も可能。
ディフェンスに関しても無敵時間のある回避、盾によるガード、敵をスタンさせるパリィが用意されており、プレイヤーに豊富な選択肢を提供している。

この豊富な選択肢は、特に1vs1の戦闘を盛り上げてくれる。
弱攻撃を安全に差し込むのか、強攻撃で更なるチャンスを狙うのか。
敵の攻撃を無難に回避するのか、或いはパリィによりスタンを狙うのか。
魔法を使えば更に安全に攻撃が可能だが、さりとてMPには限りがあり、これをどのように配分するのか。

ソウルシリーズのような名作とは比べるべくもないが、ゲームとして最低限の出来栄えには達していると評して良いだろう。

……PCだけを見れば。

実際にゲームの完成度を決めるのはPCばかりではない。
そのPCが気持ちよく敵を倒せる環境が有るか、これが何より重要だ。
PCと環境の相性さえしっかりしていれば、ダッシュとジャンプしかできなかったとしても奥深いアクションゲームが成立するし、その逆もまた然り。

その点、今作は環境の構築に失敗している。
起伏や障害物に乏しい平らなフィールドばかりが連続するため、敵の視界や移動方向を制限する手段がなく、敵に簡単に包囲されてしまう。
そのくせカメラやプレイヤーの向きを察して「順番待ち」をするような配慮もなく、背中からだろうが容赦なく攻撃してくるのだ。
このため上述したような1vs1の戦闘が成立する場面は稀である。プレイヤーは包囲を避けるためにドタバタと走り回り、隙を見てチマチマと攻撃を加えていくほかない。
方向を限定できないためガードやパリィの使いどころも少なく、魔法も使用時のTPS的カメラワークのせいで視界が狭まるため通常フィールドでは使いづらくなってしまう。

数多くのアクションを搭載していながら、結局実際の戦闘で使用するのは前転回避と一部の近接スキル程度でしかない。

ではボス戦ではどうかと言うと、こちらも問題を抱えている。
序盤こそ1vs1の決闘が成立しているのだが、中盤以降はほとんどのボスが雑魚敵と連携を取るようになるため、結局ドタバタ走ってチマチマ差し込むスタイルに頼らざるを得ない。
場所によってはこのザコが状態異常弾を発射してきたりもする。
状態異常弾は超低速で、いつまでもフィールドを漂い続ける。これにうっかり接触してしまうとスロウや凍結に陥り、すかさず猛打を加えてくるボスにハメ殺されることになりかねない。

おまけに終盤のボス用フィールドの多くが高所に設置されており、フィールドの端には崖が存在する。
落下すれば問答無用でGAMEOVER。
モンスターの巨躯を見上げながら走り回っていると、いつの間にやらフィールド外縁に追い込まれ、うっかり足を滑らせてしまう事態もしばしば発生する。

戦闘に直接関わらない部分もまんべんなくクオリティが低く、アイテムの販売システム、経験値のバランス、インタラクトの判定のシビアさなど、端々の調整不足によって地味にストレスが蓄積する。

テキストの不備などは一周回って逆に愛されるレベルに達している。
最早今年の標準仕様となった翻訳の不備と思しき表現や、誤字脱字に誤植の数々。
「母さんはすぐに良くなるから。もう少しだけ辛抱なさい」(病気の母親にむける息子の発言)
「はい?!?!?」(主人公のリアクション。感嘆符が更に増えるパターンも)
「当然んじゃろ」(国王陛下の発言)
などなど、これら奇妙なテキストの数々が「ファイナル語録」として様々なコミュニティで共有され、ちょっとしたムーブメントを引き起こしていた。

配信停止によりその扱いは議論され、最終的な決断は年明けまでずれ込んでしまったものの、無事選評は受理され、2020年KOTYに名を連ねることとなる。

長らくSwitch版の配信再開を望まれていた本作は、2021年1月21日に『ファイナルソード DefinitiveEdition』としてMy Nintendo Storeに帰還した。
easyモードの追加やグラフィックの改善、その他端々の修正を加えながらも、根底に存在する理不尽性はそのままに、ファイナルソードは堂々の復活を遂げたのだ。
我らが憎むべき、そして愛すべきクソの命脈が無事保たれたこと、スレ住民として大いに祝福したいと思う。

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ファイソの扱いが未だ定まらなかった12月、師走の喧騒の中でスレに飛び込んできたのは、12月3日に発売された『テニス オープン 2020』であった。

そのゲーム性は実にシンプル。「スティックでショットの強弱、方向を指定する」だけ。コート上の移動は完全に自動だし、ラケットを振るのも自動だ。

分かりやすく言うと、テニス選手に「あっちへ打て」「このぐらいで打て」と指図するゲームなのである。

しかもこの選手がものすごいヘタクソだ。
同じように操作してもその指示に対する反応は毎回異なり、同じ位置で同じ操作をしてもアウトになったりならなかったりする。
それどころかしばしば空振りすら発生し、実態としてこのゲームはかなりの運ゲーにもなっている。

幸か不幸か、相手選手も同様にヘタクソだ。
何の変哲もない普通のラリーで勝手にミスしてくれるだけでなく、ショットを弱めてネット際に落とすと絶対に拾えない。

このようにヘタクソな選手の動向を見守りながら、ふんわりと指示を出す、それはゲームを「プレイ」していると言えるのだろうか?

つまるところ、この作品は「テニスゲーム」などではなく、「テニス応援ゲーム」なのだ。我々は決してプレイヤーなどではなく、単に上から目線の指図をヤジに乗せて選手を混乱させるだけの観客に過ぎない。
低劣なCGで構成された拙い選手たちの奮闘を眺め、時たまスティックを倒してヤジを送り、その働きぶりに一喜一憂する。

やがて人々は気づくだろう。「動画サイトでちゃんとしたプロの試合を見た方が面白い」と。

当然のように本作は話題作として認められ、ファイソと横並びになってKOTY2020の切符を手にしたのである。

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年が明けてファイソの処遇も定まり、住民の意識が総評へと向かい始めた1月半ば、滑り込むようにしてスレに持ち込まれたタイトルが、本年のトリを務める『爆丸 チャンピオンズ・オブ・ヴェストロイア(爆丸)』であった。
ロープライスのお手軽クソゲーが跳梁跋扈する中、突如として姿を現したフルプライスクソゲーに住民は盛り上がり、2月上旬には選評が書きあがる。

「爆丸」とは、2006年より展開された玩具シリーズと、これと連携するTVアニメなどからなるメディアミックス作品群だ。
タカラトミーより打ち出された企画でありながら当初日本での人気は振るわず一度畳まれた一方、海外では順調に売り上げを伸ばし、逆輸入的に日本で企画が再始動したという珍しいコンテンツだ。
この作品も開発はアメリカのWayForwardであり、つまるところ「洋ゲー」と言うことになる。

まずは基本的な戦闘システムを紹介しよう。

プレイヤーは最大3体の爆丸でチームを編成し、それぞれに4つずつ、エネルギーを消費するアビリティを装備させることができる。
バトルが始まると双方の爆丸が、10mはあろうかという巨大なモンスターとしてフィールド中央に召喚され、勝手に小突き合いを始める(が、ダメージは発生しない)。
一方でPCも見ているだけではない。PCは「ブローラー」として爆丸の足下をチョロチョロと駆けずり回り、周囲に出現する「爆コア」を拾って爆丸に投げつけることでエネルギーを供給するのである。
そしてエネルギーを十分に蓄積したうえでアビリティの使用を指示すると、ここでようやく有効な攻撃が発生するのだ。

問題はCPUの爆コア集めの挙動がかなり非効率的で、近場の爆コアを無視して遠くの爆コアを拾いに行ったり、エネルギーの高い爆コア落ちているのにエネルギーの低い爆コアに向かったりしてしまう。
このためエネルギー供給レースは基本的にプレイヤーが有利であり、するとアビリティの回転率もプレイヤーが上回り、ひいては試合全体も常にプレイヤーの有利に運ぶ。
レベルもサクサク上昇していき、集中的にレベルを上げるとストーリー中盤には上限の40に達してしまうほど。

こんな調子だから戦術的工夫は全く必要ない。
属性相性やバフ、デバフと言った諸要素も展開に大きな影響を及ぼさず、高火力アビリティのゴリ押しだけで戦闘を突破することができる。

もちろんヌルゲーであることが必ずしも悪いことではない。特に今作は子供向けのキャラゲーであるため、難易度は低すぎるぐらいがちょうどいい、と言う見方もあるだろう。

問題なのはヌルゲーを蹂躙してやる爽快感も今一つ、と言う点だ。

先述したように今作の戦闘は二段構えになっており、駆けずり回って爆コアを集めてからでなければアビリティを撃つことができない。
このせいで試合が間延びし、楽勝のバトルでも5分程度かかってしまう。
当然その時間の大半は爆コア拾いの時間であり、高火力の必殺技で敵を次々吹っ飛ばしていく気持ちよさは感じられない。
光る地面を追いかけてフィールドを走り回り、ボタンを押せばやがて相手は死ぬ。
戦略も駆け引きもなければ爽快感も得られないこの虚無性が、本作のクソ要素の根幹をなしている。

戦術性が全く必要ない火力技によるゴリ押しと、そのために強いられる爆コア集め…こうなるとゲームとしての主従が逆転してくる。

つまり今作で行われている競技は爆丸バトルではなく、1対1の玉入れ競争だ。
爆コアという名前の風変わりな「玉」を、爆丸と呼ばれる騒がしい「カゴ」に投げ入れ、最終的に投げ入れた玉の数と種類によって勝敗が決するわけだ。
お世辞にも強敵とは言い難いCPUを玉入れ競争で次々に下していく「玉入れチャンピオンズ」こそが、本作の実態なのである。

戦闘以外の部分を見ても問題点は多い。
上述したシステムはアニメや玩具とは幾分異なったものとなっており、アニメからの登場人物はチュートリアルに一人登場するのみ。
登場爆丸も基本形16体に属性ごとのカラバリを5種類用意することによって80種類以上と嘯いている有様で、キャラゲーとして十分なボリュームとは言い難い。

更には本作もまた、今年の流行に倣ってしっかりと翻訳に不備を抱えてきてくれた。
直訳してしまったのか日本語として分かりにくい表現が多発しているのみならず、訳し漏れも散見されており、誤字も標準搭載なのでせっかくの王道ストーリーに水を差されてしまう。

このようにRPGとして、キャラゲーとして、全方向へ周到にクソ要素を配置された玉入れチャンピオンズは、2020年最後の参戦者となったのである。

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ケンタ、ドリキャン、ファイソ、テニス、爆丸、五者五様の話題作がここに出揃った。

地上に具現した地獄の霧がリアルを覆い、誰もが震えて我が家にこもる中、ここに集った別種の魔物たちが、アンリアルに残された最後の安息すらも奪おうとしたのだ。
ある者は輝かしいメダルによって自身を飾り立て、ある者はその手軽さを強調して食指を誘い、ある者は子供の目を引く魅力的な玩具に変装し、汚物をその手に掴ませようと画策する。
卑劣非道の悪魔たちによる熾烈な争いが繰り広げられ、最も多くの怒りと絶望を世に生み出したのは――――――

ファイナルソード』である。

振り返ってみれば、今年も昨年同様「無」を武器とする作品が目立つ一年となった。
ドリキャン、テニスの圧倒的な「無」は言うまでもない。
ケンタもクソローカライズの果てに残されたのは何ら心に響くことのない不条理シナリオのみであり、その性質は圧倒的虚無なのである。
そして爆丸も、その根幹たるバトルの様態が虚無的な玉入れである以上、やはり虚無ゲーに該当する。

彼らと比較すれば、ファイナルソードは明らかに完成度が高い。
ゲーム中に用意された様々な選択肢、敵を打倒するために要求される戦術判断、状況によっては快楽すら生じさせるこの作品は、客観的に評価すれば他の作品より優れているとすら言っていい。

だからこそ、この作品は大賞を授かるべきなのだ。

我々は、今一度「クソゲー」とは……あるいは「クソ」が何を意味するのかを考えなくてはならない。
「クソ」とは単に、客観的な欠陥の大きさを指す蔑称だっただろうか?
血の通わない理詰めの議論の果てに、大勢の合意に基づいて与えられる称号だっただろうか。

そうではないはずだ。

「クソ」とは心の叫びであり、プレイヤー個々人の胸に生ずる主観的な感想に過ぎないのだ。
ゲームをプレイしクリアする、その過程で生ずるフラストレーションがあまりに大きくて、つい口からこぼれてしまう下品な悪態こそが「クソ」なのだ。

その頂点を決めようというKOTYにおいて、客観に逃げることは許されない。
我々は理論的に作品の欠陥を算定するのではなく、プレイヤーの視点に立ってその主観を想像しなければならないのである。

根本的に理解が困難なケンタ、ゲームとして最低限の体裁すらも怪しいドリキャン、「プレイ」が成立してるかも疑わしいテニス、無為乾燥な玉入れRPGと化した爆丸。

昨年総評の言葉を借りれば「顔を背けてそれで終わり」なこれら作品に対し、ファイナルソードは容易に顔を背けさせてはくれない。

クソ要素の隙間に絶妙なバランスで散在するささやかな快楽がプレイヤーのモチベーションを高め、クソの山を登る活力を与えてしまう。
わずかに甘い汁を吸わされたプレイヤーは、その先に更なる甘味を期待せざるを得ない。
その先で理不尽の連鎖にくじけそうになったころ、ファイソは期待に応えてすかさず次の飴を提供し、もっと美味いものがあるぞとプレイヤーの背中を押すのである。

そうしてプレイヤーの精神を強烈にマヒさせ、下山という選択肢が脳裏から消えうせたころ、ファイソはついに本性を現し、クソの雨を浴びせてくるのだ。
半ば正気を失ったプレイヤーたちに顔を背ける選択肢は浮かばない。
今や目の前に見える頂上を目指して猛進し、嵐に正面から挑んでいく。
そうして登頂したころに彼らはようやく気付く。
己の肉体がどれほど疲弊し、そして心をどれほど摩耗させてしまったのか……

わずかな美点が混ぜ込まれたクソの塊は、純粋なクソより一層強力に我々をいたぶるのである。

我々を新たな真理へと導いた伝道者『ファイナルソード』と、その生みの親であるHUP Gamesに、最大級の感謝と、そして大賞の栄誉を贈ることとする。

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48ショック、太平洋の嵐、これまで幾度となく変革を迎えてきたKOTYは、DL販売の発達によって新たな変革期を迎えた。

低下した参入ハードルは恐るべき魔物の襲来を引き起こした。
商品未満の作品が次々と参入し、最低限の完成度を備えているというだけでクソゲーたちが次々と跳ね返されてしまう……
据え置き版にもついに「修羅の国」の門戸が開いたのである。
我々は苦難の新時代に立ち向かい、これに適応せねばならない。

だが新たな時代に挑む時こそ、過去に目を向けるべきなのだ。
かつての大賞作品たちがどれほどの苦痛と憎悪を生み出したのか。
負の感情の大渦に、先人たちがいかに立ち向かい、これを束ねていったのか。

客観に逃げてはいけない。
機械になってはいけない。
我々は常に人としてクソゲーに向き合い、怒り、憎み、悲しまなければならない。
積み重なった負の感情を乗り越えた先にこそ、KOTYが目指した「笑い」があるのだから。


最後に、本年度覇者である『ファイナルソード』の言葉を借りて、我々スレ住民の覚悟を示すこととしよう。

「クソゲーはこの俺たちの手で片づけてやる!!!」