2011年のKOTY(クソゲーオブザイヤー)は、新たなる探求のはじまりであった。
来る日も来る日も繰り返される再検証、混迷する議論のさなか、
スレ住人たちの関心は次第に、より根源的な問いへと向かっていた。
「クソゲーとは、何であるのか」
さらに言うならば、
「クソゲーオブザイヤー、すなわちその年一番のクソゲーとは、いったい何であるのか」
掟破りの「申し開き」によって再評価され、王座を勝ち取った『誤当地』は、そんな問いかけに対して一つの答えを示唆していた。
一つのクソゲーを語り尽くすには、あらゆる切り口からの緻密なアプローチと、執念たぎる厚い記述が必要であると。
そして、タカラトミーが事実上ゲーム業界から撤退し、王位を返上したことで、運命の歯車は大きく動き始めた。
クソゲー界における「大空位時代」の幕開けである。
地獄の総評審議を終えてKOTYスレが平穏を取り戻した3月、
日本のゲーム業界には、米国からの最後通牒が届いていた。
PS3/Xbox 360向けに発売された、『デューク ニューケム フォーエバー』(Duke Nukem Forever、通称「DNF」)。
13年もの製作期間を経て、2011年に海外で発売された超大作の、日本語ローカライズ版である。
本作の全容を語るにはまず、伝説の男である主人公【デューク・ニューケム】について語らねばなるまい。
FPS(ファースト・パーソン・シューター)というジャンルのあけぼのにおいて、彼こそがヒーローであった。
どこまでも広がる自由な世界、下品で奔放なジョークセンス、
鍛えた肉体と銃を武器に、エイリアンどもを蹴散らす圧倒的なパワー。
USAを体現するキャラクターとして、あるいは、『Wolfenstein 3D』や『DOOM』と並ぶ古典FPSの名作として、
彼の名は知る人ぞ知るところであった。
だが、長すぎる雌伏を経て、再び現れた彼の姿は、「腐ってやがる、遅すぎたんだ……」とばかりに変わり果てていた。
それでは、公式サイトで【これが"本物"のシューターゲームだ!!】と豪語するその実態を紐解いていこう。
まず、本作のゲーム性を総括すると、絶望的に地味で退屈なゲームだ。
撃ち合いそっちのけで、ヒントもマップも与えられないまま探索に駆り出され、
重しを持ち運ぶ、バルブをひねるといった、プレイ時間水増しのギミックを淡々とこなすだけ。
「困ったらWEBのQ&Aを見ろ」と言いつつ、公式サイトでは一切用意していないというまさかの「ググレカス」仕様も相まって、
プレイヤーのやる気はバターのように溶けていく。
デューク本人も、往時のカリスマはどこへやら、
持ち前の下品なジョークは序盤で息切れし、あとは粛々と作業を消化するのみ。
道中の戦闘では、弾の節約や自動回復狙いの隠れんぼが戦略の肝となる。
これだけでも海外大手ゲームサイトから、「10点満点中の0点」、「シリーズの面汚し」などの酷評を受ける出来であったが、
うれしくないことに、日本語版ではこのクソ溜めにさらに【おつり】がついてくる。
公式サイトでは、「販売延期のお知らせとお詫び」のジャンプ先が404 Not Found、と、製品の発売に先んじて喧嘩を売っており、
ローディングが約40秒、持ち運べる武器が二つしかない、といった問題点も、なぜか日本のみがパッチ未配布。
オンラインモードも日本のみ隔離措置で、発売1ヶ月時点で1時間以上プレイした人数が20人未満。過疎どころか、廃村状態である。
対戦できないのは言わずもがな、ランキング下位に「プレイ時間 00:00:00」という異様なスコアが並んでいたことも忘れがたい。
かくして、『DNF』は作中のデュークよろしく、alienすなわち「異邦人」たる日本人に対して全力で汚物を投げつけた。
ここに、和洋のクソゲー大戦の火蓋が切られたのである。
未曾有の外敵の脅威にうち震える日本のクソゲーハンターたちであったが、
それに続いて夏の盛り、終戦記念日の翌日に、とうとう本土上陸を許してしまうこととなる。
PS3専用ソフト、『ヘビーファイア アフガニスタン』(通称「アフガン」)。
本国のWiiウェア市場でDL数ランキング1位かつ圧倒的低評価という、あの元祖『人生』と同じ偉業を引っさげての到来である。
本作のジャンルは、「レールシューティング」(レールシュー)。
ゲーム形式としては、画面内の敵を全て倒すたびに一定のルートを進んでいくものであり、
『タイムクライシス』シリーズや『ザ ハウス オブ ザ デッド』シリーズなど、
ゲーセンの定番であるガンシューティングと基本的には同じだ。
ところが本作の完成度はそれらの快作には遠く及ばず、むしろ世紀の怪作『デスクリムゾン』を彷彿させるものであった。
まずゲーム性については、独自の観点から【戦場のリアリティ】を徹底追求している。
たとえば、この手のジャンルでは「物陰に隠れて待つか、前に出て撃つか」の駆け引きがゲームの肝となるのだが、
本作ではいくら隠れようが関係なく撃たれたり、そもそも隠れる場所がなかったりと、面白くなるための鉄則を自ら叩き壊している。
敵配置はゲリラ戦の悪夢を忠実に再現し、光学迷彩とでも言わんばかりに背景にカモフラージュ。
撃たれるまでわからないどころか、撃たれてもパチンコ玉程度の小さな穴が開くだけで、「死ぬまで気づかない」。
リトライしても体力は回復しておらず、死ぬ直前からのループを延々と繰り返すゴールドエクスペリエンス・レクイエム状態が待っている。
かように過酷な現実の前では、主人公が口癖のように「ふぅあー!」と自らを奮い立たせるのも無理はあるまい。
また、「全力で手抜きしたい」という、妥協なき【コスト削減】の精神も随所で光る。
ストーリーは刺し身のツマ、どころかタンポポ程度の存在意義しかなく、徹頭徹尾「なんとなく任務をこなして終わり」。
人質救出のミッションで全員殺害しても不問で、車や倒壊物からの緊急回避に失敗しても無傷と、本当に何のドラマも存在しない。
サウンド関連も、「まないたで野菜切ってる音」と評される拳銃の発砲音、
ポップコーンとよく似たロケットランチャーの爆発音など、台所で収録可能なクォリティだ。
ハードモードでは「画面を暗くすれば敵が見えにくい(hard to see)」という、日本人にはない発想で既存ステージを流用しており、
「二つの難易度でボリュームも二倍だな」とばかりに、ミッション数をちゃっかり水増し表記していることにも注目されたい。
多人数モードも、レールシューの「レール」という部分に着想を得たのか、一人の動きに全員が連動する電車ごっこ形式である。
このような本気のクソゲーを作った開発会社の思いに応えたのか、
日本向け販売担当の「ハムスター」社も、入魂の【クソローカライズ】を見事にやってのけている。
手始めに、英・仏両言語対応20Pのマニュアルをモノクロ5Pに極限圧縮し、その一方で価格は3倍につり上げ。
それでいて日本版独自と言えるものはゲーム内の字幕追加のみであり、さぞかし手をかけたのであろうその日本語訳の内容も、
開幕一番、「It was my seventh birthday...」というモノローグを「17歳の誕生日だった」と訳す衝撃的なものだ。
それらの字幕は画面中央の一等地を占領するため、作戦中に表示されると邪魔なことこの上なく、
素の背景に小さな白文字で書いてあるだけなので、判読すら困難である。
ともあれ、「和魂洋才」を体現するこの一人大隊によって、戦局は一気に日本不利へと傾いたのであった。
立て続けの猛攻に対して辛酸を舐める日本勢であったが、
金木犀の香る頃、ついに起死回生の神風が吹く。
製作「イメージエポック」、販売「バンダイナムコゲームス」の黄金コンビによるPS3専用ソフト、
『時と永遠〜トキトワ〜?』(通称「トキトワ」)の参上だ。
本作のふれこみは、ずばり「世界初! HD(ハイビジョン)アニメーションRPG!」であること。
その意気やよし、
「化物語」で話題沸騰のVOFAN氏をキャラクターデザインに招き入れ、音楽には古代祐三氏を起用、
むろん、声優も実力派を揃えている……と、
万全の布陣で臨んだはずの本作であったが、産まれ落ちた物体は未知のクリーチャーであった。
第一に、本作の売りである【アニメーション】についてだが、「節約」と「リサイクル」を前面に出したエコな仕上がりになっている。
つまり、敵味方問わずアニメの枚数が極端に少なく、動きはカクカクで、同じパターンの繰り返しばかり。
いっ○く堂でもリスペクトしたのか、音声と口の動きを盛大にズラしたり、口を動かさずに喋ったりといった小技も披露する始末だ。
ヒロインにいたっては「横移動のアニメーションを削られる」という惨い仕打ちを受けており、
マップ画面では前進移動・方向回転と言った具合にラジコン操作するほかなく、
ボス戦では前に向かって走りながらカサカサと水平移動する姿が哀愁を誘う。
第二に、【RPGとしての出来】であるが、これも実に壊滅的である。
ザコ敵のグラフィックは十数パターンしか存在せず、残りはカラーバリエーション。
あまつさえ、全く異なる外見の敵同士でも、能力値をコピペした痕跡が見つかる始末だ。
バランス調整は「魔法」至上主義であり、
攻撃魔法が物理攻撃の1000倍ものダメージを叩き出す一方で、補助魔法を使えばラスボス戦も無傷で済む。
物理の重要性を説いた偉大なる反逆者『ラストリベリオン』に対してさらに反逆する者が現れるとは、いったい誰が予想できただろうか。
第三に、【ストーリー】についてもふれよう。
本作は、主人公とヒロイン「トキ」との結婚式を成功させるために、何度も時をさかのぼって冒険する「ループもの」だ。
だが、何よりもまず、この主人公の人格そのものがそびえ立つクソであり、
童貞臭あふれるゲスいモノローグと、場を凍らせるノリツッコミが全編にわたって猛威を振るうのである。
その上、メインシナリオでは彼だけでなく関係者ほぼ全員の頭がわいており、
プレイヤーは虚ろな目をしながら「早く終わってくれないかな……」と切望することとなる。
ファンタジーの世界なのに、ドラゴン相手にいきなり「消費者センターに訴えるぞ」という旨のセリフが飛び出し、
重要アイテムの引渡し場面では、「恥ずかしいから見るなよ!」→(画面暗転)→「ふんぬぬぬぅぅ〜っ!」→(ブリュリュリュリュ……ポンッ!)。
ラスボスの動機は、「毎日ナイター中継を見ながらまったりしたい。そのためにお前らの"思い出"が必要だ」という意味不明なもので、
それに対する主人公の反応が「(ナイターが)毎日やってるわけないだろっ!」。
そのほか、不快なパロネタや、「オサ島」、「カクザ島」など、やる気のないネーミングを自ら茶化すメタネタも満載であり、
書いた人間に対して「殺意」という名のリアルな感情を呼び起こすことに成功している。
なお、しっぽまで○ンコが詰まっているタイ焼きのごとく、EDまでもがクソ要素だ。
ヒロイン「トキ」は2Pカラーの別人格を持っており、展開によってはこのアミバ(仮)と結婚するEDもあるのだが、
あろうことか花嫁入場のグラフィックがトキ版の使い回しであり、髪の色の違いは「まるでトキみたいだ……」の一言で片付けられる。
開発元のイメージエポックは「JRPG宣言」と称して日本のRPG製作をリードしようとしているが、
その結果については、本作公式サイトにおける「ひ、ひどすぎるよー!」という台詞が全てを物語っていたと言えよう。
にわかに風向きが変わった戦局の裏では、対米向け最終決戦兵器がひそかに建造されていた。
俗に、「年末には魔物が潜んでいる」と言うが、本年も例外ではなかったのである。
年の瀬迫る11月末、荒れ狂う大時化の海から突如現れた超弩級戦艦……
それこそが、名門「システムソフト・アルファー(SSα)」による、
『太平洋の嵐〜戦艦大和、暁に出撃す!〜』(通称、「嵐」)。
PCゲーム『太平洋の嵐5』を移植元とし、各プラットフォームで圧倒的低評価を得てきた戦略SLGだ。
全方面で隙のないクソゲーづくりに定評があるSSαであるが、今回も予想の斜め上を行っている。
それでは、各論から見ていこう。
グラフィックは初代PS時代でも物議を醸すレベルであり、戦車はポリゴン一枚一枚が際立つ前衛的な造形で、歩兵はホバー行軍。
BGMはタイトル画面から割れんばかりの爆音が鳴り響き、その音量設定は起動のたびにリセットされる。
【UI】も、これまでのSSαゲーの中でも1,2を争う低クォリティだ。
チュートリアルなどという軟弱なものは用意せず、ゲーム開始と同時に意味不明なパラメータとコマンドが画面狭しと乱舞。
SSα恒例の、「マウス操作を機械的にパッドに割り振りました」と言わんばかりの複雑なボタン操作に加えて、
今作ではカーソル操作も一味違う。
根拠地に勝手に吸い付く左スティックと、超高速で動く十字キーを交互に駆使することが求められ、
瀬戸内海から船を出す際には、峠を攻める走り屋のごとくギリギリのドライビングテクニックが試される。
【ゲーム性】そのものも、凶悪な仕上がりである。
第一に《戦略性》の観点から見ると、「細かすぎて伝わらないシミュレーションゲーム」という新境地に挑んでいる。
もともとこのシリーズは物資の「輸送」、特に海上輸送にスポットライトを当てた作品であり、
いかにして自軍の補給の流れを確立するか、いかにして敵軍の輸送ラインを通商破壊するか、が鍵となっていた。
だが、ナンバリングを重ねるごとに設定項目が複雑化の一途をたどっており、本作においては荒唐無稽なまでに肥大化。
「どれだけ積載容量が余っていても、2種類以上の貨物を載せるのは断固拒否される」、
「1ターン辺りの輸送量は人力で計算しなければならない」、
といった変態仕様も重なり、コントローラを置いてあれこれと計算する苦行がプレイ時間の大半を占めることとなる。
また、本シリーズでは「プレイヤーが戦闘機の搭乗員まで一人一人決められる」というきめ細かな設定がウリであるが、
よく考えてみると司令官がそんなことをしていたら過労死確実であり、実際、「舌を噛み切りたくなる」という選評者の言もあった。
一方、そんなプレイヤーの苦悩をよそに敵CPUはチート全開で作戦展開しており、
補給はステルス輸送で、妨害どころか包囲も無効。ガソリン・重油にいたっては無限にストックしている始末だ。
おまけに、こちらの輸送は敵のワープ部隊によって叩かれるため、正直者が馬鹿を見るという虚無感がプレイヤーを襲う。
第二に、《戦術性》の概念は、敵CPUの思考回路が理解不能すぎて成立していない。
陸戦では戦力差10倍の相手が弾切れで頓死し、海戦では輸送船が迎撃に飛び出す。
バランスの面から見ても、たった10機の爆撃機で、大和・武蔵・長門・伊勢を含む旧日本軍の最強艦隊を殲滅できる惨状である。
最後に【バグと仕様】について述べると、本作ほど「仕様そのものがバグ」という言葉が似合う作品も無かろう。
フリーズはもはやSSαの伝統芸能なので特筆しないとして、実は、本作に関して目立ったバグ報告はあまりない。
それもそのはず、どこまでが仕様でどこからがバグなのか、未だにわけがわからないのである。
「一度も硫黄島に上陸してないのに硫黄島決戦に勝ったんだが……?」
「俺の潜水艦が60隻くらい消えてるんですが、それは」、と白昼夢のような世界がプレイヤーを終始幻惑する。
では、ここからは総論に入ろう。
本作のゲームシステムの礎は、二十数年前に、硬派SLGの極北とうたわれた初代『太平洋の嵐』が築いたものだ。
だが、原作者を欠いた不毛な建て増しが繰り返されることにより、
もはや誰も全容を把握しきれないカオス理論の大迷宮へと変貌してしまったのである。
ひとたび足を踏み入れれば、出口にたどり着くことは永遠にかなわず、足下は雲の上を行くかのように心もとない。
本作については、プレイヤーも開発者も文字通り五里霧中で、ゲームの実体は雲散霧消と言えよう。
誰が言ったか、本作を指して「ゲー霧」とは、言い得て妙である。
以上、4作品のノミネートを以って、2012年KOTYの大賞を発表しよう。
空位を巡って和洋の猛者が結集し、総力戦となった今回。
大量破壊兵器に、条約違反のBC兵器の応酬、
前例のない世界規模の戦火の中で、最後まで立っていたのは……
『太平洋の嵐〜戦艦大和、暁に出撃す!〜』である。
その理由はひとえに、本作が「最強」のクソゲーであったからだ。
はて、最強とはなんぞや。
歴代のKOTYを見てもわかる通り、「その年一番のクソゲー」が何かとは一口には言い切れない。
「最高」、「最凶」、「完璧」、「絶無」……
大賞に選ばれた作品は、それぞれ全く違った形で自らの勝利を掴み取ってきた。
本作の場合、スケールの大きさ、クソ要素の多さについては先述の通りであるが、
それにもまして、もう一つの決定的な特徴があった。
とにかく、【語りにくい】のである。
「ゲー霧」の名にふさわしく、本作を言葉で捉えようとしても霧のように散り消えてしまう。
人は皆、クソゲーを掴んでしまったとき、おどけて語ることで、笑い飛ばすことで、傷を癒そうとするものだ。
それすら許さない本作は、怒りや悲しみ、苦しみを吐き出す機会さえ与えない、まさしく最強のクソゲーの一つであると言えよう。
言葉にしにくい本作のクソさに対して、当初、侮りや訝りの目が向けられたことは否めない。
しかしながら、真実を目の当たりにしてきた者たちの反応は違った。
このゲームこそが「一番のクソゲー」だ。
だが……言葉によって全てを明らかにしなければ、その確信が認められることはない。
かくして、魔物をもとめて霧の海への遠征が始まった。
それは、60日にも渡る苦難の日々だった。
選評が書き上がったと言い残したまま失踪した者もいた。
西方の勇者は「ストレスで禿げる」と言い残し、本作を封印した。
志半ばで選評を諦めた者、原稿用紙100枚にも相当する目次付きレポートを残した者もいた。
そうして徐々に、ひたすらに強大で、いびつな、怪物の姿形が明るみに出てきたのである。
──やがて、戦士たちが死出の船旅を終え、『嵐』の選評が出揃ったとき、
まるで霧の晴れた地平線に、途方もなく大きな日の出を見たかのようだった。
皆、敬礼し、心から戦士たちの帰還を祝福した。
強かった。
かつてない強敵だった。
各々の心に刻まれた実感、何よりもそれが本作の「最強」の証明である。
それに勝る根拠など、幾ら理屈を並べ立てたところで用意できまい。
そして、もし仲間がいなければ、ここに帰る場所がなければ、心折れて敗北していただろう。
本来であれば、関わったプレイヤー全てを呑み込み、誰からも語られることのない存在……
『嵐』は、クソゲーの海に現れた、伝説のリヴァイアサンであったのかも知れない。
2012年のKOTYは、今までにない世界規模のウォーゲームとなった。
だが、一方で、クソゲーを通じて世界のゲーマーと心通じた年であるとも言えないだろうか。
思えば、和洋のクソゲー界は長きに渡ってそれぞれの道を突き進んできた。
東に『コンボイの謎』あれば、西に『E.T.』あり。
西に『Big Rigs』あれば、東に『四八(仮)』あり。
そんな中で、本年は一つの交錯点であった。
『DNF』や『アフガン』を検証しながら、海の向こうの罵声に対して、我々は奇妙な一体感を覚えていたのではなかろうか。
『トキトワ』が今夏北米に輸出されると聞いて、申し訳なさと意地悪な笑みが同時にこみ上げていたのではないだろうか。
そして、大賞を取った『嵐』は、ジャパニーズ・クソゲー・カルチャーをどこまでも雄弁に物語るものであった。
すなわち、「クソゲーで受けた苦しみは、意地でもネタにしてやる」。
愚かで、ささやかな、復讐者たちの文化がここにある。
最後に、2012年のKOTYを盛り立ててくれた新世代の申し子たちを並び讃え、
同年公開の映画「アベンジャーズ」から次の言葉を借りることで、この狂宴に幕を下ろそう。
「世 界 よ、 こ れ が ク ソ ゲ ー だ。」