2015年のKOTY(クソゲーオブザイヤー)は、空前絶後の二大問題作による正面衝突であった。
2度の変身を遂げ、KOTY史上最悪とも目される「賽の河原バグ」を生み出した伝説のクソゲー、『アジノコ』。
「テトリス」の仕様の隙を突き、「時間消失バグ」によってプレイヤーを恐怖の渦へ陥れた究極のクソゲー、『テトアル』。
天地鳴動の激戦は見事、『アジノコ』の勝利に終わり、KOTY史にまた一つ新たな伝説が刻まれた。
その裏で、スレもまた、歴史の変わり目を迎えていた。
旧wikiの運用停止、そして、新wikiへの移住である。
2008年に創立されて以来、総評の受理や荒らしへの対応などの大役を務め上げた旧管理人の勇退に対し、
スレ住人は思い思いの謝辞を送った。
また、新たなアジトを開いてくれた新管理人には、その勇気を讃えて最大限の喝采が贈られたのであった。
ともあれ、こうして装いも新たに、2016年のKOTYが始まった。
果たして、今回は一体どんなゲームが待ち構えていることだろうか。
***
4月6日、開戦の狼煙は突如として上がった。
PS3専用DLソフト、『RAMBO THE VIDEO GAME』(以下、「ランボー」)。
映画『ランボー』シリーズは、言わずと知れた戦争アクションの代名詞的存在。
かつてベトナム戦争で戦った帰還兵「ジョン・ランボー」を主人公とし、
戦争の不条理に葛藤しながらも超人的な肉体で戦い抜く、その生き様を苛烈に描き出す。
80年代に発表された3部作が瞬く間に世界に旋風を巻き起こしたことは今さら特筆するまでもないだろう。
さて、本作はそんな人気シリーズ3部作を原作としたガンシューティングである。
原作のネームバリューの高さに、キャストの顔の再現や爆破エフェクトなどなかなか頑張っているグラフィック。
さらには国内発売にあたって、先に発売していた海外版のDLCを価格据え置きで付けるなど、
良い面だけ見ると期待できそうな本作であったが、一つだけ、猛烈な不安材料があった。
「開発:TEYON」。
据置機部門のKOTYでは2012、2013年と2連続ノミネート、携帯機部門では2012年に大賞を排出した、
あの『ヘビーファイア』シリーズの開発会社である。
では、早速評価を下していこう。
まず、『ヘビーファイア』シリーズ最大の問題点であった【戦場のリアリティ】が、治っていない。
この問題点は、第一義的には「敵を全滅させるまでその場から動けない」というガンシューティングのゲーム性に
「必ずしも隠れられないし、隠れても撃たれる」という理不尽な現実主義路線を混ぜてしまったことであった。
だが今作ではそれを改善するどころかさらに強化し、
「隠れていると敵が遮蔽物をぶっ壊して迫ってくる」し、「いきなり手榴弾が飛んできて死ぬ」。
演出面でもクソ・リアリストぶりは健在だ。
例えば、映画1作目で、かつての上官からの説得に対してランボーが涙ながらに帰還兵の苦しみを訴えるシーンに、
映画2作目、ベトナムで行動を共にしていたヒロインが銃で撃たれ、ランボーと最期の別れをするシーン……
といった感動の名場面は、「戦場にお涙ちょうだい要素は必要ない」とばかりに徹底的にカット。
これでは葛藤もクソもなく、本作におけるランボーは淡々と敵兵を虐殺していく戦闘マシーンにしか見えない。
また、映画撮影当時のマスターから取ってきたと豪語する効果音も、本当に「ありのままの現物を取ってきただけ」。
『ペチペチ』、『ぱふっ』などの可愛らしい打撃音を無調整でぶち込むあたりが実に『ヘビーファイア』らしいリアル志向だ。
また、ランボーと言えば「不死身」のイメージが強いが、本作においては非常にリアルに「生身の人間」ぶりを見せつける。
例えば、原作のランボーはロケット弾を撃ち込まれて生き埋めにされてもピンピンしているが、
本作においてはその辺の雑兵に背中を取られて刺殺、自分の投げた手榴弾で爆死と、頓死に次ぐ頓死。
ランボーというよりは「裸ん坊」と言うべき耐久力の無さに、原作ファンは早々にこのゲームから怒りの脱出を試みるだろう。
その他、敵兵が妙にタフなこともあって「ランボースタイル」のプレイは不可能と言ってもよく、
ゲーム後半に至っては、異常な火力と耐久力を誇る「重装兵」、かくれんぼしつつ豪速球で手榴弾を投げてくる「グレネード兵」、
その場にいるだけで敵陣営の攻撃力が倍増する「指揮官」の三者が地獄のジェットストリームアタックを仕掛けてくる。
と、ここまではランボーをいつもの「戦場のリアリティ」で容赦なく上塗りしただけのように聞こえるかもしれない。
だが、本作の真骨頂はそこにとどまらない。
真に恐ろしいのは、両者がコラボしたことによって起きた「化学反応」である。
『ランボー』原作における、映像作品としてのエンターテインメント性を追い求める「戦場のリアリティ」と、
『ヘビーファイア』シリーズにおける、低予算ゆえのエンターテインメント性の薄さをごまかすための「戦場のリアリティ」。
相反する二つの個性の弁証法は、より高次元な概念を生み出した。
それこそが今作固有の新機軸、【戦場のリアル・リアリティ】だ。
その最たる例が、「リロード・ルーレット」システムである。
一般的に、ガンシューティングでは弾切れを起こすとリロードボタンを押す必要がある。
だが、それではランボーの強さがリアルに描けていないと考えたのか、
スタッフはこのリロードアクションに「ルーレットゲーム」をつけた。
目押しに成功すれば2倍、失敗すれば半分、止まるまで待っていれば通常通り充填されるという、一種のボーナス要素である。
そこまではまだいい。
問題は、そこに『ヘビーファイア』特有のシビアさが加味されており、ルーレット中も敵の猛攻が一切やまないことだ。
ついでに言えば、目押し自体が無駄に難しく、大概は最後まで待つこととなる。
以上から、本作における弾切れは、決死の覚悟でルーレットを回す回避不能な罰ゲームと化している。
もう一つの目玉要素が、「怒りモード」だ。
今作には「怒り」ゲージがあり、それが規定値に達すると一種のトランス状態である「怒りモード」に移行することができる。
発動中は視界が赤く染まり、あたかも脳内麻薬が異常分泌されているかのごとくゲーム画面がスロー再生になる。
これだけならランボーの超人性にマッチした演出と言えるが、ここで終わらないのが『ヘビーファイア』流。
彼らは自分で作ったこのモードを本当に「ただの錯覚」と解釈したらしく、
現実時間に換算するとほんの一瞬で終わる仕様になっている。
ルーレットを一度回したり、手榴弾のピンを抜いて投げたりするだけで怒りがすっきりしてしまうランボーを見ると、
映画で見せたあの荒々しい怒りはどこへ行ったのかとため息せざるを得ない。
期待できそうな新システムで持ち上げた後、「やっぱりいつものヘビーファイアじゃねえか!」と絶望のドン底に落とす。
このブービートラップにスレ住人は次々に引っ掛かり、晴れて本作はKOTY入りすることとなった。
『ヘビーファイア』関連作品によるスレ制圧は、これで三度目。
しかも、また「門番」である。
ちなみに、本作は原作のネームバリューをもとにPlayStationストアの販売ランキングで最高2位を記録しており、
外交問題に発展しかねないと判断されたのか、日本での配信開始からわずか9か月後に販売停止されたことも付記しておこう。
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絶対的な門番が君臨するとき、外敵からの脅威は遠いものとなる。
圧政と引き換えの、一時の平和。支配されるという特権……さしずめ、「ランボーのくびき」とでも言おうか。
しばらくの間、門番を破るゲームが現れることはなく、気が付けば時は11月。
「年末の魔物」が現れる季節である。
スレ住人は既に、ある怪作の検証を開始していた。
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11月22日、KOTYの門は再び開かれた。
猛々しい咆哮とともにコロシアムに現れた、怒れる獣。
PS4専用DLソフト、『TORO -牛との戦い-』。
表題のTOROとはPlayStationシリーズのマスコットキャラクターではなく、スペイン語で「牛」を意味する単語。
「闘牛シミュレーションゲーム」という、これまでになかった全く新しいジャンルからの参戦である。
さて、そもそも、「闘牛」とは何かという点を押さえずしては評価できるまい。
闘牛はいくつかの演目に分かれたショーであり、大別すると三つの見どころがある。
一つ、闘牛士以外が登場し、槍や銛を突き刺して牛の闘争心を煽る、「前座」のパート。
二つ、よく知られている闘牛士が登場し、暴れる牛をマントで華麗に翻弄する、「演舞」のパート。
三つ、最後にやってくるのが闘牛士が牛に止めを刺す、「決戦」のパートだ。
ここで重要なのは、闘牛の本質がその名の通り「牛との闘い」であること。
闘牛において牛は殺されるが、手負いの牛と対峙する闘牛士もまた死の危険に常に晒されており、両者は命がけである。
講釈はここまでにして、ゲームの内容に入っていこう。
本作は、スペイン発のインディーズ制作スタジオの手による作品。
実際の闘牛を模したステージをクリアしながら、闘牛に関するルールや背景知識の解説を読むという構成である。
言ってみれば「闘牛の入門書」としての側面があり、平易かつ闘牛愛を感じさせる丁寧な筆致は概ね高く評価されている。
だが、その他の面でのクオリティは、インディーズであることを差し引いてもあまりにも凄絶であると言わざるを得ない。
グラフィックは全編を通じて20年以上前の初代PS時代レベルと評せざるを得ず、
開幕早々、どぎつい配色の画面でローポリ人形がカクカクと踊り狂うオープニングムービーがプレイヤーの網膜を焼き尽くす。
音響に関しても問題は山積みであり、牛の走る効果音や歓声がない一方でブーイングだけ完備している、
オプションで音量調整できるがなぜか反映されない等、頭を抱える出来になっている。
そして肝心のゲーム性についてだが……きわめて難解かつシュールであり、とてもではないが一口には言い表せない。
ここは、検証者の一人が提言した、
「本作で扱っているのはただの闘牛ではなく、新たな競技”TOGYU”である」
という仮説に則って説明していこう。
まずはじめに、本作に挑んだプレイヤーは
【スポーツとして再構成された闘牛】
に衝撃を受けるだろう。
本作は「演舞」パート中心の構成になっており、
「難しい技を成功させること」、
「連続して牛の突進をかわすこと」、
この二点がゲーム性の肝になっている。
そう聞いただけだと、実際の闘牛のように様々なマントさばきで牛をかわし続ける爽快感のようなものを想起するだろう。
だが、本作では技の発動可能タイミングが一切示されず、勘だけを頼りにボタンを押すしかない。
また、技のコンボ中に牛に追突されると獲得スコアがゼロになる仕様であり、
安定してプレイするためにはいちいち連続技を中断するか、簡単な技だけで何とかしのぐほかない。
以上の二点から、プレイスタイルは必然的に以下の通りになってしまう。
一つ、運任せで大技を出し、一度成功したらガン逃げし、コンボが途切れるまで待つ。
二つ、コンボ数ノルマを稼ぐために、一番最初に習う「その場で半回転するだけ」の地味な基本技だけをひたすら繰り返す。
一見すると闘牛とは真逆のチキンファイトとしか思えないこの光景を通して、製作者は何を伝えたかったのだろうか?
その真相は、彼らの「闘牛愛」を考えることで見えてくる。
近年、闘牛の人気はかげりを見せている。
その原因は闘牛の持つ危険性や、要求される技能レベルの高さによる競技人口の少なさにあることは疑いようもない。
そこで、本作ではスポーツとしての健全性を確保するために、まず何よりも安全確保を第一に組み込んだのだろう。
また、技能の垣根を取り払い、初心者から上級者まで楽しめるように採点基準を整理したのではないか。
このように考えると、本作のつまらなさは、闘牛がスポーツ化を模索する過程における一種の「成長痛」であると言えよう。
そして、もう一点、闘牛とTOGYUの決定的に違う点が、
【スポーツマンシップに基づく牛との関係性】
である。
先に述べた通り、現実の闘牛において、牛は殺される。
この点は動物愛護の観点から常に非難に晒されており、州によっては「闘牛禁止法」が可決されてしまった例もある。
だが、そんな現実世界の闘牛文化が苦悩する姿に対して、本作はコペルニクス的転回を提示する。
牛は、ともにスポーツを楽しむべき友達であるのだと。
例えば、闘牛における牛は、興奮を促すために槍で突かれ、銛で刺されるという一方的な虐待を受ける。
しかし、本作では槍で突く場面はないし、「幕間」パートで銛を刺す際にも全く血が出ておらず、
よく見てみると麺伸ばし棒のような器具でマッサージを試みているだけだとわかる。
TOGYUSHIも現実の闘牛士とは違い、殺伐さを微塵も感じさせない好演を見せる。
ステージ中で牛に吹っ飛ばされ、一見すると危険な角度から真っ逆さまに地面に突き刺さったりもするが、心配には及ばない。
「お互い傷つけ合わない」という牛との信頼関係が築かれているがゆえ、何度でもノーダメージで起き上がることができる。
そして、核心に触れよう。
闘牛と言えば演目の最後の最後、「真実の時」とも呼ばれる「決戦」パートが本来は最高に盛り上がるところだ。
最後の力を振り絞って突撃する牛、
刺突剣(エストック)を構えてそれを迎え撃つ闘牛士。
両者が交錯する瞬間、一突きのもとに牛の生命に終止符が打たれる……はずなのだが、
本作ではすごい勢いでカメラが動き回り、牛の姿が消えてしまい、肝心の瞬間に何が起きたのか全くわからない。
しかしながら、ここまでの考察を踏まえれば次のように解釈できるだろう。
これは、殺されたと思われた牛を無傷で生還させるためのトリック映像であり、
闘牛の持つ儀礼的側面を尊重しつつ、スポーツとしての健全性を目指したスタッフの粋な計らいなのである。
以上から、本作はゲームという媒体をいかして今後の闘牛の発展形をも提案する意欲作であったと言えよう。
しかしながら、それがゲームとしての評価に直結するか否かは、悲しいかな、全く別の話である。
作中で流れるフラメンコギターの感傷的な旋律が、低評価のレビューが増えていく本作の行く末を物語っていた。
***
スペインからの動物兵器を何とか凌ぎ切り、ほっと胸をなでおろしたスレ住人であったが、
その笑顔は固く、頬には一筋の冷たい汗が伝っていた。
「年末の魔物」は、他にもいたのだ。
12月15日、運命の夜は訪れた。
PS4向けシミュレーションRPG、
『古き良き時代の冒険譚』(通称「古き良き」)。
本作のジャンルは、『ファイアーエムブレム』などでよく知られる「シミュレーションRPG(SRPG)」。
オーソドックスなターン制で、移動範囲やパラメータ特性の違うユニットを動かしながら敵AIと戦う形式である。
そして気宇壮大なタイトルである『古き良き時代の冒険譚』という言葉の意味するところについては、
製作者が掲げた下記の三つのコンセプトが、公式サイトに燦然と輝いている。
1つ、ルールはわかりやすくシンプルに。
2つ、小難しい話や鬱展開にはならず。
3つ、誰でも満足感を持ってクリアできる難易度で。
実にあっぱれな心意気ではあるが、はたして、それが実際の作品に反映されたのだろうかか……
などとは言うまでもなく、この場に名を連ねている事実が全てを物語っているだろう。
以下、理想に燃えた製作者に敬意を表して、
『古き良き』の目指したものと、行きついたところを一つ一つ丹念に紐解いていこう。
一つ目、【ルールはわかりやすくシンプルに】。
一言で表現するなら、「シンプルさを追求しすぎて全く面白くなくなっている」。
まず、戦闘システムについて話そう。
本作ではユニットの取れる行動は攻撃するか待機するかしかなく、「回避」や「防御」のコマンドはない。
攻撃は必ず命中し、敵AIはほぼ一定の行動パターンで動くため、何度やりなおしてもユニット間の力の差は覆らない。
次に、操作キャラクターについて。
主人公とボスキャラを除くと、本作には5種類のモブユニットしか登場しない。
これは初代『ファイアーエムブレム』の4分の1にも満たず、しかも全て敵味方共通である。
同種のユニットであればパラメータの違いは誤差程度、習得魔法は全く同じであり、キャラ育成の自由度も皆無と言える。
最後に、ゲームバランスについて。
本作のダメージ計算式は『アルテリオス』などに見られる、「ダメージ=攻撃力-防御力」というきわめてシンプルなものである。
この計算式ではレベル差によって戦闘結果が大きく変わるため、バランス調整に細心の注意を払う必要があるのだが、
案の定と言おうか、本作では適正レベルから少しでも不足すると途端にダメージが通らなくなる。
これらの話を総合するとどうなるか。
プレイヤーの腕の見せ所である戦術要素がまるでなく、
キャラクターの育成にプレイヤーそれぞれの戦略性を見出すこともできず、
ただひたすら、「勝てるレベルになるまで淡々と経験値を稼ぐこと」しかできないのである。
実際、全21ステージの長大なプレイ時間の大部分を経験値稼ぎに費やすことになる。
ちなみに、チュートリアルでは「詰まったら同じステージを何回もやり直してレベル上げしてね」という直球の指示があり、
経験値稼ぎと「撤退」コマンドを繰り返すのは、れっきとしたメーカー推奨の遊び方である。
なお、製作者は本作の発売に並行して
「ゲームとして一番つまらないのは、『同じ行為を繰り返す』ことだと思うんです」
と述べているが、この批判が自身の作ったゲームに完全一致することについてどう思うか問うてみたいものだ。
そして二つ目、【誰でも満足感を持ってクリアできる難易度で】。
ゲーム初心者向けに、本作には二つの救済措置が用意されている。
その一つが、「後出しジャンケン」システムだ。
本作では、交戦前に敵味方ともに「ダメージ無効化」や「HP/MP全回復」などの特殊カードを使用することができるのだが、
敵AIが何を出すか、プレイヤー側には事前に筒抜けになっている。
よってこちらは相手の出方に応じて有利なカードを選択するだけで良く、ただの茶番としか言いようがない。
もう一つが、「ドーピング」である。
本作では攻撃力、防御力、魔力のそれぞれをステータス上昇魔法で底上げすることができるが、
ステータス上限の99まで重ね掛けできる仕様だ。
敵AIはバカ正直に一回しか使わないため、プレイヤーはこの仕様に気づいてしまうと相手を一方的に蹂躙できるようになる。
確かに、この二つを駆使すれば「誰でもクリアできる」だろう。
だが、得られるのは「満足感」ではなく、チートで勝ったところで何が面白いんだろうという「虚無感」ではなかろうか。
最後に三つ目、【小難しい話や鬱展開にはならず】。
本作のシナリオでは、最初にこんな説明をされる。
「舞台は中世風の国で、計7人の王子・王女が次期国王の座を巡って勝負することになった。
『王家の墓』というダンジョンに挑戦し、最深部に一番乗りした者が勝ち。
果たして、末っ子である主人公は勝つことができるだろうか」
ここまではいいとして、問題はここからである。
まず、起承転結の「承」にあたる、話や設定の組み立てがない。
戦うことになる他の王子・王女は仲違いも腹違いもなく、そもそも王位継承に関して揉める要素が一切ない。
各々の動機も、「王になってモテたいから」だの「女王になってニートしたいから」だのと、不真面目なものばかり。
一見中世風に見える世界観も、「二次元の嫁」やスマートフォン状の物体が出てくるなど完全に自壊している。
続いて、「転」と言えるようなドラマ的な盛り上がりがない。
本作では「いくら敗北しても肉体的には無傷」という設定であり、緊張感はゼロ。
仲間は現地で拾うモブしかおらず、最初から最後まで一言もセリフがない。
そして、「結」、すなわちオチがない。
ダンジョン最奥部で待ち受けるのは、「実はエレベータがあったんだ」という脱力物のご都合展開であり、
あっけに取られるプレイヤーを尻目にほのぼのと家族で団欒した後、次の一文で唐突に幕切れする。
「彼の治める国はどのようなものになるのでしょうか。それは皆さんのご想像にお任せします」。
この通り、起承転結で言えば、思い付きを書き連ねただけの「起」の部分しかないのが本作最大の特徴だ。
これでは「小難しくない話」や「明るい展開」ではなく、ただの黒歴史ノートである。
総括すると、本作は「古き良き時代」のシンプルかつ奥深いゲームでもなければ、「冒険譚」ですらない。
もし、プレイヤーに命名権が与えられるとすれば、
『SIMPLE 2000 THEレベル上げ作業』か『墓場で家族会議』の二択で迷うところだろう。
いずれにせよ、もし本当の意味での「古き良き時代の冒険譚」を求めているのであれば、
本作の4分の1ほどの値段で売られているゲームアーカイブスを漁る方が100倍有益であると言えよう。
***
以上が本年のノミネート作全てである。
表と裏の超一流コラボが生み出したバイオニックソルジャー、『ランボー』。
世界に羽ばたくTOGYUSHI、『TORO』。
恐れを知らぬブーメランの名手、『古き良き』。
稀代の奸雄がそろい踏みし、三者三様の計略で混沌と化した戦場を見事に平らげ、
新時代の天下統一の旗を立てたのは……
『古き良き時代の冒険譚』である。
なぜ、猛者ぞろいのノミネート3作の中にあって、本作が勝利したか?
それは、このゲームの真の姿が、プレイすればするほどに凶悪さを増して行く、
【君と響きあうクソゲー】
であるからだ。
この言葉の真意を伝えるにあたって、まず、ほかの2作と『古き良き』の決定的な違いを説明しよう。
ズバリそれは、『古き良き』には「プレイヤーの成長」が存在することだ。
『ランボー』は典型的な「理不尽ゲー」であり、修練よりも「死なずに済むまでやり直す」だけの試行回数がモノを言う。
『TORO』はそもそも何をもって技の成功が判定されているのか、検証者の誰にも解明できなかった。
これらに対して、『古き良き』では理不尽要素もルールの破綻もなく、プレイヤーのスキルは順当に成長していく。
それ自体は普通のゲームにおいては歓迎すべきことなのだが、本作においては事情が違う。
一つ一つ見て行った通り、本作には遊び方の自由度がなく、真剣勝負のスリルもなく、読むべきテキストもない。
プレイヤーには考えるべき内容が何もなく、ただ、手を動かすのみだ。
すると、プレイヤーに何が起きるか?
「プレイスピードの果てしない加速」である。
解き終わったパズルを何度も解かされるようなうんざり感とともに、プレイヤーの手際はどんどん良くなっていく。
何も考えなくとも次の一手が瞬時に思い浮かぶように、はたまた、相手の動きが自動的に予測できるように。
そして、同時進行的にゲームの側にも変化が訪れる。
「ゲームスピードの相対的な低下」だ。
プレイヤーの精神が加速すれば加速するほど、目の前のゲームの挙動がどんどん、鈍重に感じられるようになる。
そしてそれは、体感的なストレスに直結する。
キーレスポンスの異様な悪さや、UIの不出来。
一挙手一投足に差し挿まれる省略不可能なアニメーション。
毎回同じ動きをするはずの敵ユニットの、不可解なまでに長い思考時間。
単調かつバリエーションに乏しく、うんざりするほど長く付き合うはめになるステージBGM。
これら、一つ一つは小さく思えるクソ要素が、
十数時間の退屈な作業プレイを通じて、徐々に、耐え難い苦痛に変質していくのだ。
プレイヤースキルの上昇に伴い、一つ一つの問題点が切迫感を増していく……。
これこそが、本作を「君と響きあうクソゲー」と評したゆえんである。
最初は、突出した個性のない地味なクソゲーと捉える向きもあった。
だが、違う。
プレイ開始時は慎ましやかであり、
徐々に重層的にクソのハーモニーを重ね上げ、
終末に向かって苦痛のボルテージを高めていくその様は、
さながら、ラヴェルの『ボレロ』を奏でるオーケストラのような壮大さであると言えよう。
素晴らしい独創性を見せてくれた本作の勝利を祝し、万雷の拍手とともに謹んで献杯したい。
***
2016年のノミネート作品に共通するものがあるとすれば、
【理想と現実の乖離】であろう。
これら3作の製作陣には明確に、「作りたいもの」、「こうありたいもの」があった。
こういった理想と現実のかけ離れた異形のゲームを、我々スレ住人は愛を込めて、笑顔で「クソゲー」と呼ぶ。
だが、世間ではもう一つ、「クソゲー」の言葉が使われる場面がある。
【理想と理想の乖離】……メーカーとプレイヤーとで、思い描いた夢が違った時だ。
理想と理想の食い違いは、悲しい争いを生む。
制作費が膨れ上がる昨今、メーカーは厳しい現実を前にして、あれこれと注文を付けるプレイヤーの存在から目を背けがちだ。
そして、プレイヤーは、実際の製品が自らの期待と違ったとき、その「がっかり」に耐え切れずに口汚く糾弾してしまう。
「こんなもの、クソゲーだ」と。
そうしてクソゲーという言葉が愛ではなく憎しみに染まるとき、プレイヤーもメーカーも、笑顔になれなくなる。
いつの日か、皆が一つの理想を語り合えるようになる時、クソゲーという言葉から負の側面が無くなるのかもしれない。
そんな思いを込めて、古き良き時代のSRPGの金字塔『タクティクスオウガ』から、
聖騎士ランスロットの遺した言葉にあやかることで、本稿を終えよう。
「君たちのようなゲームを愛する者同士が戦わなくともよい……そんな世界を築きたいものだな……」