2020年 総評
2020年 次点

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このページは、2020年度KOTY総評の案を集めるページです。総評の審議に役立てば幸いです。

総評案1 (Kentucky Route Zero: TV Edition

RPG・パズル・スポーツ……多彩なジャンルから、色とりどりの悪夢が名乗りを上げた、狂乱の2019年。
覇者『サマースウィートハート』は、昨今ゲーム界で急成長を続ける中国の暗い影を、コンシューマクソゲー界にも投げかけた。
さらなる国際化の波、ダウンロード販売の一般化、コンシューマとインディーズの壁の低下。
クソゲーを取り巻く環境の変化に翻弄されつつも、スレ住民はそれでも期待に食指を震わせる。
環境の変化は猟場の、そして獲物の多様化をも意味する。
まだ見ぬ獲物に思いを馳せつつ、2020年のKOTYスレは、静かに始まった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――そう、スレは実際に静かだった。うららかな春4月の、その日までは。

その日、スレに選評が持ち込まれたゲームの名は、『Kentucky Route Zero:TV Edition(日本語版)』(ダウンロード専売、以下『ケンタッキー日本語版』)。
その名に、目を疑う者もいた。プレイ報告をさえ、疑う者もいた。
それも道理、本作は既にSteamで配信され、海外では「名作」あるいは「傑作」の評価を確立した作品だったのだ。
2013年の第1章配信以来、文学性と芸術性の高さ、独創的な世界観によって高評価を受け、多数の賞を受賞してきた『Kentucky Route Zero』。
この『TV Edition』は、そのコンシューマ向け完全版として1月に発売されたものだった。
パッケージ発売でこそなかったが、PS4、Swich、XboxOneのマルチプラットフォーム、また原語の英語以外に7言語に対応する多言語化。
まさにその評価にふさわしい販路が整えらえた、期待のコンシューマ化だったと言えよう。
ではなぜ本作は、KOTYスレなどに持ち込まれてしまったのか?

その理由として選評者が挙げた事項はただ一つ、「日本語版の翻訳が酷すぎる」であった。

確かに、本作の日本語訳は、目も当てられない低質ぶりを露呈していた。
後日のアップデートによって、「日本語として完全に意味不明」な一部の訳については修正が図られはしたものの、
だがそれはもともと「読めない」に等しく、いわば墨塗りにされていた部分だ。
そうした一部分が読めるようになったところで、既に翻訳の根本的な杜撰さによって殺されていた物語は、蘇りはしなかったのだ。

では、「根本的に杜撰」な翻訳とは、どんなものだったろうか?

大量の誤字脱字は無論のこと標準装備、重要な人物名や地名の訳語すら統一できておらず、人物の口調がころころ変わるのも当たり前。
中高生レベルの訳も怪しい部分まで多々見られ、読者の誤解を煽る。例えば人名の「Cliff」は堂々と「崖」と表示され、
「(カビを)掻き取る」の意味の「scrape」はなぜか「(PCを)スクラップする」と訳され話を捻じ曲げる。
さらには文脈や場面をガン無視して随所にぶち込まれた、Google翻訳の香り漂う直訳が、雰囲気と世界観を滅多切りに切り刻んでくる。

こうしたクソ翻訳は、「はい!義母になる!」でおなじみの前年覇者『サマスイ』など、近年の輸入海外ゲーム、
特にインディーズゲームでは悲しいことながら、すでに一般的になってしまっている印象すらある。
だが本作のクソ翻訳は、確かにそれらと同根ではあるものの、比較にならないほど大きな問題性をはらんでいた。

それは本作が、「文章で物語を語る」ことに徹底的にこだわった、テキストアドベンチャーであるからだ。

ミステリアスに絡み合う現実と非現実、もつれあう人物関係、現代化の中で失われゆく、古き良きケンタッキー州の日々。
ノーベル文学賞作家、ガルシア・マルケスに代表される「マジックリアリズム」の手法を取り入れた幻想文学的なシナリオは、
様々な視点、様々な語り口で、作中のミニゲームすらも「文章と選択肢によって」語られる。
本編・幕間合わせて10章にもなる膨大な文章と選択肢は、読むたびに違う選択をすることで、物語の別の側面、人物の違う顔を語りだす。
本作はつまり、「ひたすら文章を読み、周回を繰り返して世界観に浸り続けるのが目的」の、ゲーム機上でプレイする英文学なのだ。
そんなゲームで翻訳がその文章と世界観をぶち壊したなら、後に残るのは物語の死体でしかない。

さらには、クソ翻訳のおかげで、本来ならばプラスに働くであろう他の要素まで、物語とともに墓穴に投げ込まれてしまっている。

文学作品のような一回性や、一期一会の情趣を演出するであろうログ・スキップ機能の排除は、
「わけのわからん話のくせに読み返しにくい、不親切なシステム」に変貌し、
想像を阻害しないよう抽象化された美しいグラフィックも、「何が起こってるのか分かりにくいグラ」とも見えてしまう。
アメリカの文化や、文学・芸術の息吹を感じさせてくれるはずの、数々のオマージュや象徴表現・詩的表現も当然伝わりにくく、
「文学(笑)アート(笑)だから意味不明(笑)」と言われかねない死に要素と化したのである。

「元は名作だが、翻訳のみがすべてをぶち壊している一点突破のクソゲー」
「『訳が改善されたら喜んで選評を取り下げる』と選評者が明言する」……

スレ史上、前代未聞の状況は改めて「クソゲーとは何か」という問題を住人の前に突きつけた。
異常事態に議論は紛糾するも、「日本語対応をうたって発売された以上、日本語版がクソならばクソゲー」という前例を打ち立てつつ
『ケンタッキー日本語版』は話題作入りを果たし、早すぎる埋葬を迎えた。

「『ルートゼロ』の名のADVはクソフラグ」そんな嫌なジンクスが、スレに生まれた瞬間であった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

当初から波乱の2020年、次の大波は、さほど間を置かず襲来した。
7月2日に発売され、その見た目のあまりの低品質ぶりと、使用アセットの「音楽盗用疑惑」、
韓国語からの珍妙な誤訳の数々などによってTwitter等でも注目を集めたアクションRPG
『ファイナルソード』(Nintendo Swichダウンロード専売、以下『ファイソ』)の登場である。

話題になるやいなやKOTY Wikiがアクセス過多でダウンし、スレへの書き込みもヒートアップ。
同月6日、わずか発売4日で案の定販売が一時停止となった『ファイソ』にネット界隈が騒然とする中、
スレもまた困惑していた。

「万一盗用問題で販売中止となった場合、扱いをどうするのか」
「もしこれがクソゲーだったとして、選評を書ける住民は存在するのだろうか」

だが、そうした悩みは幸いなことに、杞憂に終わった。
販売は依然として停止されたままではあったものの、決して中止とはならなかった。
また、わずかな発売期間のうちに無事購入を果たし、貴重な時間をこの「分かり切ったクソゲー」に
つぎ込んで検証にいそしむ勇者が、熱のこもった戦況報告を次々とスレにもたらし始めたのだ。

主人公のアクションは各種攻撃や回避行動ごとにリーチや用途がきちんと違い、魔法にも威力に応じて
クールタイムが設けられるなど、単調な操作になることを防ぐ工夫は施されている。
「ハマり」を回避するための硬直時の無敵状態などもしっかり設けられており、アクションゲームの基本は押さえている。
本作は見た目こそ確かにアセットだらけで、そのちぐはぐさがどうしようもない安物感を醸成してしまっているが、全ての面が貧弱なわけではない。
アクション周りはこのように、それなりに丁寧に作りこまれており、プレイヤーへの配慮もうかがえる。
だが問題は、その作りこみを生かせるような、心躍る戦闘にならないことなのだ。

まず何より、状態異常の仕様が理不尽を通り越して悪意を感じる代物である。
状態異常の判定は、回避する以外に防ぐ方法が存在せず、ダウン復帰中などの無敵状態をも無視してヒットする。
最も厄介な状態異常「凍結」に至ってはさらに、「凍結中に他の敵に殴られると、無敵状態でも一部ダメージが貫通する」鬼畜仕様だ。
これにより、「敵Aに凍らされる→敵Bに殴られる・食らい硬直発生→敵Aに凍らされる→敵Bに……」の
無間地獄が往々にして展開され、プレイヤーの心をも凍結させてくる。

敵は一様に異様に固く、そのくせ落とす経験値は雀の涙、しかも雑魚は倒しても猛烈な速度でリポップし、常にこちらのHPとMPを全力で削ってくる。
時にはボス戦中にすらリポップを続けるが、さすがはMMOの国・韓国生まれと言うべきか、ボスは揃いも揃って
「ソロでMMOのボスに挑まされる」かのような強さを誇っているため、死亡率は無論のこと跳ね上がる。
魔法でなければ倒せないボス、集団でタコ殴りにしてくるボスなど、ボスのバリエーションも無駄に多様であり、
プレイヤーはその都度別の攻略パターンの構築を余儀なくされる。楽に前進することなど、決して許されないのだ。
そこにあるのは間違いなく理不尽とストレスの塊ではあるが、基本だけは作りこまれたシステムのおかげで、完全に破綻もしない。
ゆえにギリギリで耐えてしまった不運なプレイヤーは、常に迫られる創意工夫と、それに伴う己の技量の上昇によって、
悲しいかな、「クソなやりがい」を得てしまう。

一方、制作者は「クソゲー」のそしりを満身に受けつつも、販売停止中もアップデート作業を続けており、
その粘り強い姿勢には、奇妙な誠実ささえ漂っていた。
発売当初騒がれた、あの誤訳・珍訳の「ファイソ語録」も、数度にわたって修正が図られた。
だが、大して問題が無いと思われる台詞がマイナーチェンジされる一方で、
「目的地の方角を間違えている」「発言者を間違えている」などの部分は放置。
バグ、仕様の類に関しても鋭意修正が施されたが、直されたのはそうそう遭遇しない類のものばかりで、
「状態異常のクソ仕様」「ムービー中に雑魚が殴ってくる」など、喫緊の課題ほど直らない、謎めいた選択基準によるものだった。
決して手抜きではない。制作者の工夫と熱意は感じる。『ファイソ』は確かにそうしたゲームであった。
しかしその熱意の多くは、明後日どころか、再来年あたりの方向に向かっていた。

「間違いなくクソゲーである、推せる」と断言しつつも検証プレイを5周まで進めたと語る選評者の姿に、
「クソなやりがい」に取り憑かれ、「方向性が迷子の熱意」に魅せられた殉教者の末路の恐ろしさを住民は垣間見た。
そして『ファイソ』は、今年2作目の話題作入りを至極順当に果たしたのだった。

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同じく7月、『ファイソ』と前後してまた、新たな問題作も生み出されていた。
『Dreaming Canvas』(PS4ダウンロード専売、以下『ドリキャン』)である。
ジャンルとしてはアドベンチャーを名乗るその内容は、選評が非常に端的に語っている。

曰く、「一言で言うなら『無』。」

……もはや毎年恒例の感がある、約束されし「低価格虚無ゲー」。それが今年もやはり、やって来たのだ。

本作には5つのフィールドと、「Canvas」の名の通りキャンバス、そしてそれを立てるイーゼルがある。
キャンバスを見つけたら、あとの操作手順はこうだ。

1 プレイヤーはキャンバスの前に立ち、ボタンを押す。
2 するとキャンバスにフィールドの風景が「自動で」写し取られる。
3 それから、多少の色調調整ができる。

プレイヤーがキャンバスに関与できるのは、その3段階だけ。
「キャンバスを見つけたら、夢の風景を描く準備をしてください」とストアの売り文句にはあったはずだが、
プレイヤーがわが手で「描く」作業は、3段階のどこにも見当たらない。

キャンバスの他に存在するものは無いのか? 一応はある。イーゼルの近くに佇む、住人らしき人物たちだ。
彼らはプレイヤーが近づいても会話どころか、反応を示すことさえ無い。ただひたすらそこに立ち続けるだけで、歩きすらしない。
そんな彼らと無言で見つめあうことで何故かトロフィーを獲得できるが、「Dadaism」(ダダイスム)・「Realism」(写実主義)など
芸術的なトロフィー名と、彼らの佇まいやキャンバス上の絵がリンクしている……などという気の利いた要素は、もちろん一切無い。

フィールド上に点在するシンボルに触れると実在の画家の名言が見られる、というおまけ要素もあるとはいえ、

「絵を描くのは方法がわからないときは簡単ですが、行うと非常に困難です」(Edgar Degas)」

など、「またかよ」と言いたくなるような、見事なGoogle翻訳調だ。
ドガやゴッホのような巨匠の名すら訳されていないこうしたフレーズを見て喜ぶ層がいるのなら、それは余程奇矯な絵画マニアのみであろうが、
そもそも絵を描けず、名画も画家も登場しない『ドリキャン』を、そうした層が買うことは決して無いだろう。

「面白さを感じる部分は一つもない。絵を描く達成感もなく、描き終わったあとする事もない。本当に何もない。」

とまで選評者に言わしめた本作は、過去の虚無ゲーたちがそうであったように、
一抹の哀愁を帯びた嘆息をもって、スレに迎え入れられた。

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虚無と共に過ごした、苦痛の夏を乗り越え、漸く冬が訪れた12月初旬、突如あるゲームのPVが話題となった。

変にバタついた動きを見せる選手たちが、妙にゆっくりした軌跡しか描かないボールを、
スマッシュシーンなどの見せ場もなく、淡々と打ち続ける。
今時のスポーツゲームにしては、安価であることを割り引いても地味すぎる演出やグラフィック面が、
見ているものの何とも言えない既視感と危惧を呼び覚ます。ああ、アレだ。今までたくさん見た、ああいうヤツだ……
『テニス オープン 2020』(Nintendo Swich、ダウンロード専売、以下『テニス2020』)は、PVからして非常に香ばしかった。

そして当然のごとく、実情はさらに斜め上の香ばしさに満ちていた。
何しろ、本作はテニスゲームのはずなのに、移動はすべて「自動」。自由にコートを移動できないのだ。
ゆえに、試合中にすべきことはただ、左スティックでボールを打ち返し続けることだけ。
「プレイヤーの移動は自動、ボールの方向、ドロップやミドルレンジショットなどを選択するのみといった、とてもシンプルな操作方法」
という公式の宣伝文句に確かに嘘は無いのだが、嘘をつかなければよいというものでもない。
ゲームとして売る以上、そこに何らかの楽しさが無ければ、「シンプル」は売り文句にはならないのである。

弱いショットで敵コート前方を狙えば得点しやすい、という技はあるものの、実のところは単に敵の自動移動が追い付けていないだけで、
自己の技量によって得る点数ではないために、虚しさは募る。
しかも高難度の試合だろうとこれだけで点が取れるために、さらに虚無感は加速する。
だが、この戦法を取らなければどうなるか?
「ただラリーしてどっちかがミスるのを待つだけ。テニスというか温泉卓球、70年代のテニスゲームレベル」
と検証時に評された、疲労感あふれる作業の延々続く、「ゲー務」の面を垣間見る羽目になる。

それこそ温泉スリッパ卓球か、自宅で壁打ちでもしていたほうがよほど満足感が得られるであろう本作にも、一応の目標はある。
それは、テニスプレイヤーとしての技量を高め、テニス四大大会に出場し、グランドスラムを目指すこと。
しかし、そちらの面もお粗末だ。ライバルたちは実在の選手を思わせる名をしてはいるものの、似たりよったりの動きしか見せないただの量産型。
どんなにアバターの能力がランクが上がろうと、お粗末な自動移動に足を引っ張られてしまい、ミスショットを無くせないため、
プレイヤー技術の成長に楽しみを見出すこともできない。

その昔、任天堂のファミコンソフト『テニス』は、限られたハード性能、不便な操作性の中でも、ゲームの楽しさを教えてくれた。
自力で広いコートを駆け回ることができ、スマッシュを含む多彩な球種を扱え、着実に自分が「上手くなる」妙味があった。
だが30年以上の時を経て発売された本作は明らかに、あのレトロゲーの足元にも及んでいない。
グラフィックや、ハードの処理能力の進歩、操作の簡易化といったものだけでは到底満たせない「面白さ」が、欠け落ちていた。
「一番の問題点がマジで『つまらない』なんだよね」という心からの選評者の嘆きを背負いつつ、
『テニス2020』は、新年には無事、話題作に名を連ねたのだった。

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そして、年が明けた。
年初早々の大寒波に日本中が慄いていたころ、スレには本年最後の話題作が現れた。

「誰かSwitchの爆丸やってないの?」

そろそろ審議にも移ろうか、と浮き立ち始めたスレッドに、その第一声とともに突如浮上したのは、
11月にひっそりと発売されていた『爆丸 チャンピオンズ・オブ・ヴェストロイア』(Nintendo Swich、以下『爆丸CoV』)。
本年の候補作で唯一の、「フルプライス」かつ「パッケージ販売」作品である。
本作は日本とカナダの共同開発で生まれた玩具「爆丸」をモチーフにした日米合作アニメ『爆丸』シリーズの、コンシューマゲーム化作品だ。
誕生の経緯からして国際化社会の申し子のようなこのRPG、開発会社はアメリカであり、日本で発売されたものは「日本語ローカライズ版」。
つまりは「玩具ゲー」「キャラゲー」「翻訳ゲー」と、KOTY的に危険な三拍子が揃った本作は、いわばコテコテの「見えている地雷」であった。

しかし、地雷とみれば飛び込みたがるのがクソゲーハンターである。久々に表れたフルプライスの大物に、金を有給休暇をドブに叩き込み、
嬉々として突撃していったハンターの悲鳴がスレに響くまで、さほど長い時間はかからなかった。

「アビリティはあるけど、その効果の説明が無い」
「16種類の爆丸×各5色を80種類と言い張ってるが、普通に詐欺だろ」
「女性でも一人称は俺や僕の、ジェンダーレスな世界」 
「開発側の『こんなんでいいだろ』という気持ちが見え隠れしている」

うん、予想通り。
悲鳴を聞く住民の心に、そんな言葉が兆したのは言うまでもない。

サッカーをしていた主人公は唐突に「爆丸」を拾うことになり、一本道ストーリーのため否応なしに企業相手の戦いに巻き込まれるが、
肝心の「爆丸」がどういう代物なのか、世界観はどうなっているのか、プレイヤーには中盤まで全く説明されない。
「メイン層の子供ならアニメ見て知ってるだろ!」と言わんばかりであるが、たとえアニメ視聴層の子供たちがプレイするとしても、
説明不足で混乱せざるを得ないと思われる。
なぜならこのゲーム、原作アニメの登場人物はたった一人しか登場せず、その他の原作要素もキャラクターの相棒にして武器である「爆丸」実質16種のみ。
しかも、その名前の半分は「マクサドン→マックソドン」のように妙にアメリカ英語風の発音に改名されており、
日本の子供たちがアニメで親しんだはずの日本語名とは異なっているからだ。

加えて、本年の最頻出クソポイントと言ってよい「クソ翻訳」が、案の定本作にも魔の手を伸ばしている。

「秘密こそ、この黄金社会を束ねる糊さ」のような電波めいた直訳だけならば、まだよい。
肝心かなめの「爆丸」を「麦芽」とするような噴飯物の誤表記があるのもまあ、百歩譲ってまだよいとしよう。
だが英語のままの表記や、果ては「我可以加入你的隊伍嗎?」のような簡体字中国語の表記まで入り混じってくる
「行き過ぎた国際化」までが加わるとなれば、会話やイベントの理解が阻まれてしまうことは、想像に難くない。

バトルもののRPGでは重要な、戦闘面はどうだろう?

子供向けクソキャラゲーの御多分にもれず、戦術の妙味などを味わう余地もない、ガバガババランスのぬるま湯ゲーだ。
補助や回復は効果が小さいか持続時間が短すぎ、また、高火力アビリティのダメージ効率が高すぎるのだ。
また、各種属性間の相性が詳細に設定されているものの、相性によるダメージ上昇よりも高火力アビリティで殴るほうが効率が良いため、相性を気にする必要が無い。
かの『ラストリベリオン』に倣ったのかと思うようなこの戦闘の特性を、古式ゆかしい語法で表現するならばまさに、
「高火力アビリティを付けて物理で殴ればいい。」の一言に尽きる。
そこから当然の帰結として、「繰り返し同じ戦法を取るので、同じ演出を延々見続けなくてはならない」という拷問もまた発生するのだが、
この流れはヌルキャラゲーの大先達『ビビオペHIP』が通ったままの、まさしく「黄金」パターンであった。

本年のトレンドをしっかりと押さえ、そして過去の大賞作の二の舞を完璧に舞い切った『爆丸Cov』。
本作が選評の到来から間もなく話題作入りを果たすのは、むしろ必然とも言うべきものであった。

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さてこれで、2020年の大賞を競うこととなった、5本のクソゲーを全て紹介した。
各々別の方向性を持った、国際色豊かなクソゲーたちは、今年も負の多様性を大いに花開かせた。
しかしそんな中、大賞にふさわしい革新性を持ち、このスレで語り継ぐにふさわしい作品はあったろうか。
意欲と実力の悲しい齟齬、粗製乱造、手抜きキャラゲー……
多くの候補はそれぞれの「クソたる根拠」を持ってはいたが、そのいずれもが「予想のできる」
「どこかで見たことのある」悪夢であったはずだ。

しかし、一作品だけは異なっていた。『Kentucky Route Zero:TV Edition(日本語版)』。

本作の英語版、およびほぼ同内容のPC版はインディーズゲームでありながら、「The Game Awards」、「D.I.C.E Awards」など、
名だたるゲームオブザイヤーに多数ノミネートを果たし、つい先日には米国のSF・ファンタジー作品にとっては
最高の栄誉とも言える「ネビュラ賞」ゲームシナリオ部門へのノミネートという快挙をも成し遂げた。

そんな独創性と時代性、運に恵まれた「最高に幸せな作品」から生まれたにも関わらず、
『ケンタッキー日本語版』は、「翻訳」というたった一点で、その幸福の全てを叩き壊した。

KOTY史上、他に類を見ないその悲劇性、破滅的な革新性に、2020年クソゲーオブザイヤー大賞を贈る。


思えば2007年、KOTYスレを今の形に導いた記念碑的大賞作『四八(仮)』は、
「ADVはよっぽど電波シナリオか致命的なバグでもない限りオブザイヤーレベルのクソゲーは生まれにくい」
とされた環境を覆し、
「安牌ジャンル」という過去の概念に、大きなひびを入れた。
あれから13年。
同じくADVの『ケンタッキー日本語版』は、「良ゲー、名作ゲーですらクソゲーとなりうる」という新たな可能性を示した。
もう、どこにも「安牌」など存在しない。
我々は、今後はそんなクソゲーの未踏領域、テラ・インコグニタへ、踏み出していかねばならない旅人なのだ。
不安と、けれど心のどこかをよぎる、浮き立つような気持ちとともに、2020年にさよならを言おう。

そして最後に、大賞という重い荷を背負ってしまった『ケンタッキー日本語版』と、今後生み出されるかもしれない
「悲劇の名作」たちに、慰撫の言葉を贈りたい。
大賞作と同じく、文学性豊かな原作を持ち、幸運に恵まれていたはずのファンタジー映画の金字塔
『ロード・オブ・ザ・リング』より、公開当初、配慮の無い字幕翻訳に泣いた、あの悲運の名台詞を借りて。

「You are not yourself !」

総評案2 (爆丸 チャンピオンズ・オブ・ヴェストロイア

※大半が総評案1の無断コピペとの指摘あり

2019年のクソゲーオブザイヤーは新元号・「令和」とともに新しく洗礼されたクソゲーたちが戦いを繰り広げた。
数々のクソゲーがそれぞれ違う方向から攻めてきたため、誰が大賞になったとしてもおかしくない状況だった。

激闘の末、戦いを制したのは「サマースウィートハート」。
「終わりに惹かれる」という人間の感情にを使い、プレイをさせ続ける事によって
プレイヤーに「苦」を与えた。
今まで「無」によって戦いを制したクソゲーが多かったが、
「有」も苦痛になるということを考え直す機会だったのかもしれない。

…そして2020年。
コロナウイルスというパンデミックの中でKOTYが静かに幕を上げる。
「密」を避けるため、必然的に少人数で制作できるインディーゲームが多くなってくる。
それがどんな結末を迎えるのか。
今年もまた、戦いが始まる。

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あのパンデミックの大波乱の中の4月、最初の刺客がスレに送られた。
2020年の少し遅めの口火を切ったのは、「Kentucky Route Zero: TV Edition」(通称「ケンタ」原語版と区別するため便宜上「ケンタ日本語版」と表記する)
その名に、目を疑う者もいた。プレイ報告さえ、疑う者もいた。
それも道理、本作は既にPC(Steam)で配信され、海外では「名作」とまで言われる高い評価を受けてきた作品だからだ。
2013年に第1章が配信されて以来、文学性や芸術性の高さ、
独創的な世界観によって高評価を受け、多数の賞を受賞してきた「Kentucky Route Zero」。
この「TV Edition」は、そのコンシューマ版総集編として1月末に発売されたものだった。
パッケージ販売でこそなかったが、PS4、Swich、XboxOneのマルチプラットフォーム、また原語の英語以外7つもの言語に対応する多言語化。
まさにその評価にふさわしい販路が整えらえた、期待のコンシューマ化だったと言えよう。
ではなぜ本作は、KOTYスレなどに持ち込まれてしまったのか?

その理由は唯一つ、「日本語版の翻訳が壊滅的である」ということである。

たしかに本作の日本語版は翻訳の質があまりにも劣悪だ。例えば、人名の「Cliff」は堂々と「崖」と表示され、
「(カビを)掻き取る」の意味の「scrape」はなぜか「(PCを)スクラップする」と訳され話を捻じ曲げる。
機械翻訳を利用しているのだろうと思われるような不親切な訳文がいたるところに見られ、
「日本語ネイティブのチェック」や、「一人の訳者による通し読み」などは
行っていないだろうと確信できるような、配慮のない翻訳になっている。
その結果、日本語版は「テキストと世界観にまるで浸れないし、読み返したくない代物」になってしまっている。
これがこのゲームのほぼ唯一の、そして致命的なクソ点である。

こうしたクソ翻訳は「はい!義母になる!」でおなじみの前年大賞「サマスイ」に通じるものが有り、
特にインディーゲームでは悲しいことながら、既に一般的になってしまっている。
だが、このゲームはそれが他のゲームよりも重大な欠点になってしまう。

なぜなら本作は「文章で世界観を創る」ことに徹底的に拘ったテキストアドベンチャーだからだ。

ミステリアスに絡み合う現実と非現実、もつれあう人物関係、現代化の中で失われゆく、古き良きケンタッキー州の日々。
ノーベル文学賞作家、ガルシア・マルケスに代表される「マジックリアリズム」の手法を取り入れた幻想文学的なシナリオは、
様々な視点、様々な語り口で、時には作中のミニゲームすら「文章と選択肢によって」語られる。
本編・幕間合わせて10章にもなる膨大な文章と選択肢は、読むたびに違う選択をすることで、物語の別の側面、人物の違う顔を語ってくれる。
本作はつまり、「ひたすら文章を読み、周回を繰り返して世界観に浸り続けるのが目的」の、ゲーム機上でプレイする英文学なのだ。
そんなゲームで翻訳がその文章と世界観をぶち壊したなら、後に残るのは物語の死体、良くてゾンビでしかない。

さらには、クソ翻訳のおかげで、本来ならばプラスに働くであろう他の要素まで、物語とともに墓穴に投げ込まれてしまっている。

文学作品のような一回性や、一期一会の情趣を演出するであろうログ・スキップ機能の排除は、
「わけのわからん文章のくせに読み返しにくい、不親切なシステム」に変貌し、
文章から広がる想像を阻害しないよう抽象化された美しいグラフィックも、「何が起こってるのか分かりにくいグラ」とも見えてしまう。
アメリカの文化や、文学・芸術の息吹を感じさせてくれるはずの、数々のオマージュや象徴表現・詩的表現も当然伝わりにくく、
「文学(笑)アート(笑)だから意味不明(笑)」と言われかねない死に要素と化したのである。


一応、後に配布されたパッチによって、「破壊的な機械翻訳」という点が改善され、
このパッチで直された部分はさほど問題なく読めるようになった。
しかし、支離滅裂な機械翻訳が減り、一応は読めるようになったことによって、
「明らかに破綻した翻訳のせいでろくに読めない」クソゲーから
「読めたって結局わけが分からない」という印象の、別種の業が深いクソゲーになってしまった。

支離滅裂な機械翻訳。パッチを当てられても別の意味で支離滅裂。
原語である英語版の評価が高いだけに、日本語版の糞翻訳がより際立ってしまった。
この点は知る人ぞ知る「荒野のウエスタン」に通じるものがあるだろう。

スレ史上、前代未聞の状況は改めて「クソゲーとは何か」という問題を住人の前に突きつけた。
異常事態に議論は紛糾するも、「日本語対応をうたって発売された以上、日本語版がクソならばクソゲー」という前例を打ち立てつつ
「ケンタ日本語版」は5月には話題作入りを果たし、発売4か月にして、早すぎる埋葬を迎えた。
「『ルートゼロ』の名のADVはクソフラグ」そんな嫌なジンクスが、スレに生まれた瞬間であった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

当初から波乱の2020年、次の大波は、さほど間を置かず襲来した。
7月2日に発売され、その見た目のあまりの低品質ぶりと、使用アセットの「音楽盗作疑惑」、
韓国語からの珍妙な誤訳の数々などによってTwitter等でも注目を集めたアクションRPG
「ファイナルソード」(Nintendo Swichダウンロード専売、通称「ファイソ」)の登場である

話題になるやいなやKOTY Wikiがアクセス過多でダウンし、スレへの書き込みもヒートアップ。
同月6日、わずか発売4日で案の定販売が一時停止となった「ファイソ」にネット界隈が騒然とする中、
スレもまた困惑していた。

「万一盗作問題で販売中止となった場合、扱いをどうするのか」
「もしこれがクソゲーだったとして、選評を書ける住民は存在するのだろうか」

だが、そうした悩みは幸いなことに、杞憂に終わった。
販売は依然として停止されたままではあったものの、決して中止とはならなかった。
また、わずかな発売期間のうちに無事購入を果たし、貴重な時間をこの「分かり切ったクソゲー」に
つぎ込んで検証にいそしむ勇者が、熱のこもった戦況報告を次々とスレにもたらし始めたのだ。

主人公のアクションは各種攻撃や回避行動ごとにリーチや用途がきちんと違い、魔法にも威力に応じて
クールタイムが設けられるなど、単調な操作になることを防ぐ工夫は施されている。
「ハマり」を回避するための硬直時の無敵状態などもしっかり設けられており、アクションゲームの基本は押さえている。
本作は見た目こそ確かにアセットだらけで、そのちぐはぐさがどうしようもない安物感を醸成してしまっているが、全ての面が貧弱なわけではない。
アクション周りはこのように、それなりに丁寧に作りこまれており、プレイヤーへの配慮もうかがえる。
だが問題は、その作りこみを生かせるような、心躍る戦闘にならないことなのだ。

まず何より、状態異常の仕様が理不尽を通り越して悪意を感じる代物である。
状態異常の判定は、回避する以外に防ぐ方法が存在せず、ダウン復帰中などの無敵状態をも無視してヒットする。
最も厄介な状態異常「凍結」に至ってはさらに、「凍結中に他の敵に殴られると、無敵状態でも一部ダメージが貫通する」鬼畜仕様だ。
これにより、「敵Aに凍らされる→敵Bに殴られる・食らい硬直発生→敵Aに凍らされる→敵Bに……」の
無間地獄が往々にして展開され、プレイヤーの心をも凍結させてくる。

敵はバランス調整をまともにしていないというレベルで固く、そのくせ落とす経験値は雀の涙、
しかも雑魚は倒しても倒しても猛烈な勢いでリスポーンし、プレイヤー側のHPやMPをゴリゴリ削っていく。
時にボス戦中にすら湧いてくるが、ボスは揃いも揃ってソシャゲのイベントのボスキャラのような強さを誇るため、死亡率は跳ね上がる。
物理では倒せないボス、集団でタコ殴りにしてくるボスなど、無駄にバリエーションが豊富であるため、
その都度別の攻略パターンの構築を余儀なくされ、楽に前進することは許されない。
そこにあるのは間違いなく理不尽とストレスの塊ではあるが、基本だけは作りこまれたシステムのおかげで、完全に破綻もしない。
ゆえにギリギリで耐えてしまった不運なプレイヤーは、常に迫られる創意工夫と、それに伴う己の技量の上昇によって、
悲しいかな、「クソなやりがい」を得てしまう。

一方、制作者は「クソゲー」のそしりを満身に受けつつも、販売停止中もアップデート作業を続けており、
その粘り強い姿勢には、奇妙な誠実ささえ漂っていた。
発売当初騒がれた、あの誤訳・珍訳の「ファイソ語録」も、数度にわたって修正が図られた。
だが、対して問題が無いと思われる台詞がマイナーチェンジされる一方で、
「目的地の方角を間違えている」「発言者を間違えている」などの部分は放置。
バグ、仕様の類に関しても鋭意修正が施されたが、直されたのはそうそう遭遇しない類のものばかりで、
「状態異常のクソ仕様」「ムービー中に雑魚が殴ってくる」など、喫緊の課題ほど直らない、謎めいた選択基準によるものだった。
決して手抜きではない。制作者の工夫と熱意は感じる。「ファイソ」は確かにそうしたゲームであった。
しかしその熱意の多くは、明後日どころか、再来年あたりの方向に向かっていた。

「間違いなくクソゲーである、推せる」と断言しつつも検証プレイを五周まで進めたと語る選評者の姿に、
「クソなやりがい」に取り憑かれ、「方向性が迷子の熱意」に魅せられた殉教者の末路の恐ろしさを住民は垣間見た。
そして「ファイソ」は、今年二作目の話題作入りを至極順当に果たしたのだった。

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同じく7月、「ファイソ」と前後してまた、新たな問題作も生み出されていた。
「Dreaming Canvas」(PS4ダウンロード専売、通称「ドリキャン」)である。
ジャンルとしてはアドベンチャーを名乗るその内容は、選評が非常に端的に語っている。

曰く、「一言で言うなら『無』。」

……もはや毎年恒例の感がある、約束されし「低価格虚無ゲー」。それが今年もやはり、やって来たのだ。

本作には5つのフィールドと、「Canvas」の名の通りキャンバス、そしてそれを立てるイーゼルがある。
キャンバスを見つけたら、あとの操作手順はこうだ。

1 プレイヤーはキャンバスの前に立ち、ボタンを押す。
2 するとキャンバスにフィールドの風景が「自動で」写し取られる。
3 それから、多少の色調調整ができる。

プレイヤーがキャンバスに関与できるのは、その3つだけ。
「キャンバスを見つけたら、夢の風景を描く準備をしてください」とストアの売り文句にはあったはずだが、
プレイヤー自身の手で「描く」作業は、その3段階のどこにも見当たらない。

キャンバスの他に存在するものはないのか? 一応はある。イーゼルの近くに佇む、旅人たちだ。
彼らはプレイヤーが近づいても会話どころか、反応を示すことさえ無い。ただひたすらそこに立ち続けるだけで、歩きすらしない。
そんな彼らと無言で見つめあうことで何故かトロフィーを獲得できるが、「Dadaism」(ダダイスム)・「Realism」(写実主義)など
芸術的なトロフィー名と、彼らの佇まいやキャンバス上の絵がリンクしている……などという気の利いた要素は、もちろん一切無い。
しかも旅人と言う割には旅をしているという感じはなく、どちらかというと住人のようである。

フィールド上に点在するシンボルに触れると、実在の画家たちの名言が見られるおまけ要素もあるとはいえ、

「絵を描くのは方法がわからないときは簡単ですが、行うと非常に困難です」(Edgar Degas)

など、「またかよ」と言いたくなるような、見事なGoogle翻訳調だ。
ドガやゴッホのような巨匠の名すら訳されていないこうしたフレーズを見て喜ぶ層がいるのなら、それは余程奇矯な絵画マニアのみであろうが、
そもそも絵を描けず、名画も画家も登場しない「ドリキャン」を、そうした層が買うことは決して無いだろう。

「面白さを感じる部分は一つもない。絵を描く達成感もなく、描き終わったあとする事もない。本当に何もない。」

とまで言わしめた本作は、過去のゲー無たちがそうであったように、一抹の哀愁を帯びた嘆息をもって、スレに迎え入れられた。

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虚無と共に過ごした、苦痛の夏を乗り越え、漸く冬が訪れた12月初旬、突如あるゲームのPVが話題となった。

変にバタついた動きを見せる選手たちが、妙にゆっくりした軌跡しか描かないボールを、
スマッシュシーンなどの見せ場もなく、淡々と打ち続ける。
今時のスポーツゲームにしては、安価であることを割り引いても地味すぎる演出やグラフィック面が、
見ているものの何とも言えない既視感と危惧を呼び覚ます。ああ、アレだ。今までたくさん見た、ああいうヤツだ……
「テニス オープン 2020」(Nintendo Swich、ダウンロード専売、通称「テニス2020」)は、PVからして非常に香ばしかった。

そして当然のごとく、実情はさらに斜め上の香ばしさに満ちていた。
何しろ、本作はテニスゲームのはずなのに、移動はすべて「自動」。自由にコートを移動できないのだ。
ゆえに、試合中にすべきことはただ、左スティックでボールを打ち返し続けることだけ。
「プレイヤーの移動は自動、ボールの方向、ドロップやミドルレンジショットなどを選択するのみといった、とてもシンプルな操作方法」
という公式の宣伝文句に確かに嘘は無いのだが、嘘をつかなければよいというものでもない。
ゲームとして売る以上、そこに何らかの楽しさがなければ「シンプル」は売り文句にはならないのである。
一応、かの名作「Wii sports」のテニスもオート移動だったが、あちらは体を動かすことで球を打ち返すという独自の操作性があり、
テニスの中だけでも複数のルールがあったため、オート移動はあまり気にならないものになっていた。

弱いショットでコート前方を狙えば得点しやすい、という技はあるものの、実のところは単に敵の自動移動が追い付けていないだけで、
自己の技量によって得る点数ではないために、虚しさは募る。
しかも高難度の試合だろうとこれだけで点が取れるために、さらに虚無感は加速する。
だが、この戦法を取らなければどうなるか?
「ただラリーしてどっちかがミスるのを待つだけ。テニスというか温泉卓球、70年代のテニスゲームレベル」
と検証時に評された、疲労感あふれる作業の延々続く、「ゲー務」の面を垣間見る羽目になる。

それこそスリッパでの温泉卓球か、自宅で壁打ちでもしていたほうがよほど満足感が得られるであろう本作にも、一応の目標はある。
それは、テニスプレイヤーとしての技量を高め、テニス四大大会に出場し、グランドスラムを目指すこと。
しかし、そちらの面もお粗末だ。ライバルたちは実在の選手を思わせる名をしてはいるものの、似たりよったりの動きしか見せないただの量産型。
どんなにアバターの能力がランクが上がろうと、お粗末な自動移動に足を引っ張られてしまい、ミスショットを無くせないため、
プレイヤー技術の成長に楽しみを見出すこともできない。

その昔、任天堂のファミコンソフト「テニス」は、限られたハード性能、不便な操作性の中でも、ゲームの楽しさを教えてくれた。
自力で広いコートを駆け回ることができ、スマッシュを含む多彩な球種を扱え、着実に自分が「上手くなる」妙味があった。
だが30年以上の時を経て発売された本作は明らかに、あのレトロゲーの足元にも及んでいない。
グラフィックや、ハードの処理能力の進歩、操作の簡易化といったものだけでは到底満たせない「面白さ」が、欠け落ちていた。
「一番の問題点がマジで『つまらない』なんだよね」という心からの選評者の嘆きを背負いつつ、
「テニス2020」は、新年には無事、話題作に名を連ねたのだった。

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そして、年が明けた。
年初早々の大寒波に日本中が慄いていたころ、スレには本年最後の話題作が現れた。

「誰かSwitchの爆丸やってないの?」

そろそろ審議にも移ろうか、と浮き立ち始めたスレッドに、その第一声とともに突如浮上したのは、
11月にひっそりと発売されていた「爆丸 チャンピオンズ・オブ・ヴェストロイア」(Nintendo Swich、以下「爆丸CoV」)。
本年の候補作で唯一の、「フルプライス」かつ「パッケージ販売」作品である。
本作は日本とカナダの共同開発で生まれた玩具「爆丸」をモチーフにした日米合作アニメ「爆丸」シリーズの、コンシューマゲーム化作品だ。
誕生の経緯からして国際化社会の申し子のようなこのRPG、開発会社はアメリカであり、日本で発売されたものは「日本語ローカライズ版」。
つまりは「玩具ゲー」「キャラゲー」「翻訳ゲー」と、KOTY的に危険な三拍子が揃った本作は、いわばコテコテの「見えている地雷」であった。

しかし、地雷とみれば飛び込みたがるのがクソゲーハンターである。久々に表れたフルプライスの大物に、金を有給休暇をドブに叩き込み、
嬉々として突撃していったハンターの悲鳴がスレに響くまで、さほど長い時間はかからなかった。

「アビリティがあるけど、その効果の説明が無い」
「16種類の爆丸×各5色を80種類と言い張ってるが、普通に詐欺だろ」
「女性でも僕や俺と言う、ジェンダーレス()な世界」 
「開発側の『こんなんでいいだろ』という気持ちが見え隠れしている」

…うん、予想通り。
悲鳴を聞く住民の心に、そんな言葉が兆したのは言うまでもない。

サッカーをしていた主人公は唐突に「爆丸」を拾うことになり、一本道ストーリーのため否応なしに企業相手の戦いに巻き込まれるが、
肝心の「爆丸」がどういう代物なのか、世界観はどうなっているのか、プレイヤーには中盤まで全く説明されない。
「メイン層の子供ならアニメ見て知ってるだろ!」と言わんばかりであるが、たとえアニメ視聴層の子供たちがプレイするとしても、
説明不足で混乱せざるを得ないと思われる。
なぜならこのゲーム、原作アニメの登場人物はたった一人しか登場せず、その他の原作要素もキャラクターの相棒にして武器である「爆丸」実質16種のみ。
しかも、その名前の半分は「マクサドン→マックソドン」のように妙にアメリカ英語風の発音に改名されており、
日本の子供たちがアニメで親しんだはずの日本語名とは異なっているからだ。

加えて、本年の最頻出クソポイントと言ってよい「クソ翻訳」が、案の定本作にも魔の手を伸ばしている。

「秘密こそ、この黄金社会を束ねる糊さ」のような電波めいた直訳だけならば、まだよい。
肝心かなめの「爆丸」を「麦芽」とするような噴飯物の誤表記があるのもまあ、百歩譲ってまだよいとしよう。
だが英語のままの表記や、果ては「我可以加入你的隊伍嗎?」のような簡体字中国語の表記まで入り混じってくる
「行き過ぎた国際化」までが加わるとなれば、会話やイベントの理解が阻まれてしまうことは、想像に難くない。

バトルもののRPGでは重要な、戦闘面はどうだろう?

子供向けクソキャラゲーの御多分にもれず、戦術の妙味などを味わう余地もない、ガバガババランスのぬるま湯ゲーだ。
補助や回復は効果が小さいか持続時間が短すぎ、また、高火力アビリティのダメージ効率が高すぎるのだ。
また、各種属性間の相性が詳細に設定されているものの、
相性によるダメージ上昇よりも高火力アビリティで殴るほうが効率が良いため、相性を気にする必要が無い。
かの「ラストリベリオン」に倣ったのかと思うようなこの戦闘の特性を、古式ゆかしい表現で表現するならばまさに、
「高火力アビリティを付けて物理で殴ればいい。」の一言に尽きる。
そこから当然の帰結として、「繰り返し同じ戦法を取るので、同じ演出を延々見続けなくてはならない」という拷問もまた発生するのだが、
この流れはヌルキャラゲーの大先達「ビビオペHIP」が通ったままの、まさしく「黄金」パターンであった。

本年のトレンドをしっかりと押さえ、そして過去の大賞作の二の舞を完璧に舞い切った「爆丸Cov」。
本作が選評の到来から間もなく話題作入りを果たすのは、むしろ必然とも言うべきものであった。

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さてこれで、2020年の大賞を競うこととなった、5本のクソゲーを全て紹介した。
各々別の方向性を持った、国際色豊かなクソゲーたちは、今年も負の多様性を大いに花開かせた。
しかしそんな中、大賞にふさわしい革新性を持ち、このスレで語り継ぐにふさわしい作品はあったろうか。
意欲と実力の悲しい齟齬、粗製乱造、手抜きキャラゲー……
多くの候補がそれぞれ「クソである」のは間違いないが、そのいずれもが「一つの要素で他の足を引っ張っている」
「誤訳や動きによって笑え、それによってネタにできる」というレベルのクソだった。

しかし、一作品だけは異なっていた。「爆丸 チャンピオンズ・オブ・ヴェストロイア」である。

「玩具ゲー」「キャラゲー」「翻訳ゲー」と、KOTY的に危険な三拍子が揃った、いわばコテコテの「見えている地雷」であった本作。
しかし、このゲームにはもう一つゲームとして致命的な欠点があった。

それは「ゲームバランスがひどすぎる」ということである。

ゲームバランス"さえ"良ければ、もう少しまともな評価をされていたかもしれない。
しかし、ゲームバランスというゲームに置いて一番重要と言っても過言ではない部分をおざなりにした結果、
「玩具ゲー」「キャラゲー」「翻訳ゲー」「対戦モノ」というこのゲームの主な要素が全てクソであるという
不名誉な結末に終わってしまった。
今まで、玩具ゲーやキャラゲー、翻訳ゲーやゲームバランスといった面で戦いを制した者は多いが、
それらのすべての要素でぶつかってきたのは本作含め数えるほどしか無いだろう。

KOTY有数の多数のクソ要素が混ざりあったこのクソゲーに2020年クソゲーオブザイヤー大賞を贈る。

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今年もまた、戦いは終わった
最後に、TVアニメ「爆丸アーマードアライアンス」のキャッチコピーになぞらえて、
静かに始まったKOTYの結びとしよう。
「みんな感じるんだ!クソゲーの新たな力を!!」

総評案3 (ファイナルソード

※アプデで修正済みの問題点(ファイソの誤植)が挙げられており、修正が求められている

2019年のKOTYは、プレイヤーに並外れた苦痛を与える作品が揃っていた。
『サマースウィートハート』はこの年を「達成感がないシナリオを一年分延々と繰り返される」という「無と物量」を以て制した。
それと同時に、海外産のゲームのKOTY受賞は、グローバル化する時代を象徴する出来事になった。

「クソゲーなんて一本も出ないほうがいい。」
世界のゲーム市場が拡大する中、この願いが叶うときは来るのだろうか。
少しの哀愁と共に、2020年、KOTYスレは始まった。

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4月、静かだったKOTYスレに、本来現れてはいけないゲームが現れてしまった。
『Kentucky Route Zero:TV Edition日本語版』である。

『Kentucky Route Zero』についての説明を簡潔に済まそう。
米国で開発されたこのゲームは「文章で物語を語ること」にこだわったADVである。
その独創的な世界観は多方面から評価され、2013年のゲームオブザイヤーに選出されている。
プラットフォームを据置機に移した『TV Edition』も高評価で、2020年の英国アカデミー賞ゲーム部門の一部門の受賞を受けている。

なぜこのようなゲームが、KOTYの俎上に載ってしまったのか?
それは、海外産のゲームを日本で販売するときに欠かせない、とある作業が原因であった。

ケンタッキー日本語版のほぼ唯一のクソ要素は、翻訳の質が劣悪であることだ。
「では」→「でわ」と言った誤字や人名の「Cliff」を「崖」と訳すといったものは序の口であり、
主人公の名前が「コンウェイ」「コンウェー」「コーウェイ」というふうにブレる、「IRON PARIAH」など英文字のままの場所、
「頂点テクスチャフェッチの親密な暖かみから、後者は30フィート以上の垂直クリアランスを
 必要とする、悪名高い様相まで、アーティストの幅広いスケールとインパクトの範囲を表しています」
と言ったまるでもって意味不明な文章が加わる。
「文章で物語を語る」このゲームにとってはこれらの誤訳は致命的であり、世界観をぶち壊しにしている。

「訳が改善されたら喜んで選評を取り下げる」そう選評者は明言した。

このゲームは「日本語版のみがクソゲーであるゲームは扱うべきか」という論争を起こしたが、最終的には晴れて門番として話題作入りすることになった。

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「クソ翻訳」という唯一かつ最強の矛を持った門番を前に、3か月の間平穏が保たれた。
しかしそれ以上は続かなかった。7月、2本のクソゲーが来襲する。

一方は『Dreaming Canvas』である。
このゲームは説明を要約すると「5つのマップ(湖のある草原、滝壺、南国、砂漠、雪の降る街)を選び、散らばっている旅人に出会いながら名言を見つけキャンバスに絵を描くゲーム」である。
しかし、このゲームは、その存在意義を失わせる多数の問題点を抱えていた。

まず、絵を描くことはできない。
「は?」と思っただろうがこれは本当である。正確には、白いキャンバスを開く写真のような絵が描いてあり、ツマミで彩度や輝度などの5つのパラメータをいじるだけ。自分の好きな絵を描くことは不可能である。
次に、旅人はいるにはいるが、会話などはできず風景の一部である。名言を聴けると思ったらそうではなかった。
さらに、名言はマップの各所に散らばっているが、「絵を描くのは方法がわからないときは簡単ですが、行うと非常に困難です」というように、どれも直訳感満載で、芸術というものがいかに難しいかを我々に示してくれる。

さて、上記の説明から「絵を描く」「名言」「旅人」を抜いたら何が残るだろうか?

こうして毎年現れる「無」のゲームが危なげなく話題作入りを果たした。

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そして同時期に襲来した大作が、3DアクションRPGゲーム『ファイナルソード』である。
発売前からしょぼすぎるグラフィック等で見えている地雷と称され、発売5日後にBGMパクリ疑惑で販売停止され、大量のバグを用いたRTAが生放送で完走されるなど、いろいろな話題を提供した本作。
このゲームのクソ要素は、話題になるもの・ならないものも非常に多かった。

まず、異常なほど難易度が高い。
この手のゲームはダウン中無敵であることが当たり前だが、このゲームはダウン中も状態異常判定だけ命中してしまう。
そして、状態異常の一つ「凍結」はプレイヤーの食らい判定を復活させる上、凍結中に攻撃を食らうと解除時に食らいモーションが再生されるため、
ダウンする→凍結を食らう→攻撃を食らう→凍結解除と食らいモーション→モーション中に攻撃を…というループに簡単に陥る。
凍結抜きにしても雑魚の沸きはかなり早く、一匹の処理にてこずるようならあっという間に囲まれてしまう。
また、ボスキャラは当然のように執拗な起き攻めを繰り返し、一度ダウンになったが最後、一切行動できずに死ぬことも多い。

攻撃には剣を用いたものと魔法を用いたものがあるが、どちらも扱いづらい。
剣を用いた攻撃は判定が不明瞭で、見た目が当たっていても当たっていなかったり、なぜか一度に2ヒットしたりする。
魔法は操作が難しく「Rを押すと強制される主観視点で、左スティックで大量の数の雑魚の凄まじい攻撃を避けながら、使いたい魔法のセットされている十字キーを押して、当てたい敵の方向を向いて、Rを離す」という操作をとっさに行うのは至難の業である。

誤植も多く、ラスボスが主人公に「ここまで来るなんて…」と弱気を見せたり、途中まで丁寧語で話していた「神聖な木」が突然「ここは人間ごときがくる場所ではない。」と言い放つさまはシュールとしか言いようがない。

他にも地図や魔法が「何もないフィールドのど真ん中」に置かれているなど、プレイのカギとなるアイテムも手に入りづらい、メニュー画面が+を押してから少し経ってゲーム内時間が止まり、その間に攻撃を食らった場合はアイテムの使用ができない、会話や宝箱を開ける判定が異様に狭いなど、多数のクソ要素がプレイヤーに襲い掛かる。

これらを見るだけなら「プレイしたくない」という感想が先行するだろう。しかし実際に途中で投げ出した人は少なかった。なぜだろうか?
それは、このゲームが、珍妙な演出による「バカゲー」の側面を持ち合わせているからだった。
例として、あまりにもチープすぎる移動魔法と脱出魔法、「こんな死に方しました」という動画にして紹介したくなる落下死のパターン、レベルアップの演出はしょっぱいファンファーレと共に画面にデカデカと浮かぶ「LEVEL Up」の文字、そもそもなぜ「p」だけ小文字なのかなど、上げていくとキリがない。
このように、遊べば遊ぶだけ本来とは違う魅力…もといネタが大量に発見され、「クソゲーなのにやってみたい、続けたい」という感情を抱かせることになる。
「検証プレイで5周した」と言った選評者に、我々はその中毒性を垣間見ることができる。

こうして、最早懐かしいものとなった「笑えるクソゲー」がスレに迎えられた。

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12月、スレに1本のストロークが打ち込まれる。『テニス オープン 2020』である。
「本格テニスゲーム」を謳った本作だったが、そこには「本格テニス」という要素はどこにも見当たらなかった。

まず、移動操作は自動である。

大事なことなのでもう一度言う。移動操作は自動である。そのため、このゲームは「ただボールを打ち返す作業」にしかならない。
この時点で「本格」は破綻しているが、さらに追い打ちをかけるクソ要素もある。
なんと、自動操作の精度が悪いため、どうしてもボールが返せない位置に立つことも起きてしまう。さらに、弱いショットには自動操作は対応できず、自分も相手も弱いショットを打った時点でポイントが確定する、という惨状である。

ただただ左スティックだけを使ってボールを打ち返し、弱いショットでの得点は自己の技量によらないため虚無感が残り、スマッシュのような気持ちいい要素もなく、レベルの低い「ボール遊び」を強いられる。

誰が言ったか、「ゲー務」という言葉がこのゲームのすべてを物語っている。
こんなゲームでは「四大大会を勝ち抜く」という目標ですら、救済に感じるだろう。

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年が明け、もうすぐ総評の募集をしようという段階になって、あるゲームがスレに投下される。『爆丸 チャンピオンズ・オブ・ヴェストロイア』である。
アニメや玩具で名が知られている「爆丸」のゲームであり、開発はアメリカの会社。
つまりこのゲームは「キャラゲー」であり「海外産ゲー」でもあった。即ち、クソゲーになりえる要素は十分だった。
では、このゲームの内容を見ていこう。

まずこのゲームのジャンルである「RPG」としてはどうだろうか。
ストーリーは子供向けの王道ものであり、「爆丸は友達で、道具じゃない」といった話が展開される。
しかし、「爆丸とは何か」「ヴェストロイアとは何か」という話題は序盤では一切語られない。知っている人に説明する必要はないということなのだろうが、余計なお世話である。
また、戦闘は「爆コア」と呼ばれるものを拾うことで爆丸のアビリティがチャージされるが、爆コアの出現はランダムでありテンポが悪い。
CPUが弱く戦闘が易しいことも作業感を演出している。
アビリティには名称と効果やイメージが合致していないものが多く、その中でも高火力技である「スウォードパラージ」(sword parage)が強くこれだけで勝てるため、バフやデバフはほとんど意味をなさない。
他にもクソ要素は大量に存在し、RPGとしての作りはかなり甘いと感じられる。

次に「キャラゲー」としてだが、このゲームはキャラゲーではない。
「いやさっきキャラゲーって言ったでしょ」と言いたくなるだろうが、実際このゲームをキャラゲーと呼ぶことはできないのである。
なにしろ、原作の登場人物は主人公の「ダン」のみだからだ。しかもチュートリアルにしか出てこないし。
爆丸も「80種以上が使用可能」と紹介されているが、実際は16種類×5色の色違いであり、80種と呼ぶのは無理がある。
しかも16種類のうち半分が国内と名称が異なるとなれば、キャラゲーを名乗るのは不可能だろう。

そして、クソゲーによくあるテキストの問題も十分である。
例としてバス停で「地下鉄の営業が再開したぞ」と言っていたり、主人公の名前が「;プレイヤー;」と表記されていたり、開発会社が英語圏なのに中国語の文が残っている、文章を無理やり一行で表示した結果文字一つが1mmくらいの大きさになるなど、あまりにも粗末。
全体的に「低年齢層なら雑でも大丈夫だろ」という気持ちが見え隠れしている結果となった。

こうして、今年も現れた「クソキャラゲー」が滑り込みを果たした。

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以上がKOTY2020の対象候補5作である。
それぞれが別の方向にとがった作品たちは、2020年代という新たな時代を迎える今年にふさわしいものだっただろう。
そして、大賞に選ばれたのは―――

『ファイナルソード』である。

全体的に雑な作りが目立った今年の5作、『ファイナルソード』を除く4作は「読めない訳文」「何もできない空間」「単調な作業」「キャラゲーとしても不合格なシステム」と、クソ要素はそれぞれ苦痛を示す方向に向いていた。

しかし、『ファイナルソード』だけは違った。

先述のとおり、『ファイナルソード』は「クソゲー」としての面と「バカゲー」としての面を併せ持っている。
購入者はそれを「クソだわw」と言いながら嬉々として広め、それを見た人もこれは酷いと思いながら笑い、偶然目にした人や一見さんまで「これはひどいwww」「やってみたいwww」という感情を皆が一様に抱ける。
『ファイナルソード』はそんなゲームだった。
確かに難易度は理不尽に高い。調整不足の要素も多い。だからクソゲー。だがそれでもやってみたい。たくさんの人がそう思った。
よって「クソ要素が苦痛ではなく、笑いに繋がる」「もっとも多数のユーザーに、自分がクソゲーであることを知らしめた」という理由を以て、このゲームにKOTY2020対象を捧ぐ。

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思えば、最近のクソゲーは『MVT』などを筆頭に、プレイヤーに与える苦痛の大きさががクソ要素となっていた。
ゲー無しかり、ゲー霧しかり。

我々は「笑えるクソゲー」の存在を忘れていたのではないか?
「クソゲーと言えば苦しみ」とかかって考えていたのではないか?

確かにほとんどのクソゲーはプレイヤーを苦しませ、時に屈服させてきた。
しかし、『たけしの挑戦状』を始めとし、笑えるクソゲーの系譜は潰えていなかったのである。
『ファイナルソード』もそれらのように、我々を楽しませるクソゲーとして語り継がれていくだろう。
このようなクソゲーがもっと増えることを願いたい。といっても、クソゲーが出ないほうがよいのは自明の理であるが…

最後に、「史上最も愛されたクソゲー」である『デスクリムゾン』でのセリフを用い、KOTY2020を締めさせてもらおう。
こんな気持ちを持てるクソゲーが、また現れるように…

『『せっかくだから、俺はこのクソゲーを遊ぶぜ!』』

総評案4 (Dreaming Canvas

現実では出来ないRPGから、もしもの現実を体験できるシミュレーション、そして現実でもできるパズルやスポーツなど2019年はさまざまな次元からクソゲーが出た。スレ住民は「ゲームと言えないものは選外に送るのか」というか疑問を抱きつつ2019年は中国産の真夏の怪物、「サマースウィートハート」に大賞が送られた。
そして2020年…新型コロナウイルスの大混乱で平和の祭典は延期になったがその年の1番のクソゲーを決める祭典はいつも通り始まった…

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まずは1月。思いもよらないところから門番が現れた。

1/28にSwitch、1/29にPS4、4/30にX BOXOneで発売された「Kentucky Route Zero:TV Edition」(以後ケンタ日本語版)である。

このゲーム、元々は2013年から全5章+幕間5篇が順々にSteamで配信されていた究極の雰囲気ゲーである。2020年に無事物語が完結し、大変な高評価を受け「名作」と言われ、GOTYを受賞までされた素晴らしいゲームだ。それをSwitchやPS4、XBOX Oneに移植した作品になっているがそんな「名作」がなぜここに来たのだろうか?
その理由はただ一つ…「破滅的な翻訳」である。
「では」が「でわ」になったり「引き出し」が「引き出さ」になるなど誤字脱字は数えきれない、また、見る意味の「Watch」を「腕時計」にしたり人名の「Cliff」を「崖」にしたりなど、挙げ句の果てには「あなたは森の中の木々に何が起こったのか知っていますか?山火事はそれらをすべてクリアしてクリアします。それらは新しい木々のための部屋を作った」のガバガバな翻訳が全編を通してあちこちに見られるため、ミステリアスな作品の雰囲気や没入感を即ぶちこわしてくる。
7月にパッチが配布され先程の「あなたは(略)」のようなあまりにもひどすぎる機械翻訳は改善されたもののそれ以外の問題点は未だほぼ放置されている。修正が入った箇所よりはまだマシ、程度の低質翻訳なのに未修正の箇所もあり、「明らかに目立つ部分だけ、やっつけで処置したんだな」という印象である。
それでも一応、この修正によって今までよりは「読める」「意味が分かる」部分が増えたのは事実だ。特に2人の重要キャラの設定については、ほぼ読みとれなかった旧バージョンに比べればかなり分かりやすくなった。
だが、この修正で日本語版がクソゲーから脱却できたか、といえば答えは否だろう。
むしろ支離滅裂な機械翻訳が減り、一応は読めるようになったことによって、「明らかに破綻した翻訳のせいでろくに読めない」クソゲーから「読めたって結局わけが分からない」という印象の、別種の業が深いクソゲーになった感があるからだ。
「翻訳が改善されれば喜んで選評を取り下げる」と選評者は言い、ケンタ日本語版は無事話題作入りした。

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次は7月。クソゲーは2度刺す。

1つ目は7/1にPS4で発売された「Dreaming Canvas」(以後ドリキャン)である。

これは5つのマップを巡り、旅人に会いながら絵を描いていくというゲームである。
このゲームがここに来た理由は単純明快、「何も無い」からである。
このゲームは絵を描くゲームなはずだが、なんとキャンバスに絵を描けない
1マップに4個ほど白いキャンバスが置いてありそこに絵を描くのかと思いきや
キャンバスを開くと写真のような絵が描いてあり、ツマミで彩度や輝度などの5つのパラメータをいじるだけ。また、パラメータにはその効果などが書いておらず初見では不便である。
商品説明にはキャンバスを見つけたら、夢の風景を描く準備をしてくださいと書いてあるが元々描いてあるアプリで加工された写真のような絵を色彩調節するだけで、ボタンを押したら真っ白なキャンバスに一瞬で絵が描かれて何の感情もわかない毎年恒例の虚無ゲーとなっている。
旅人に会いながらとあるがNPCの周りに突っ立っているだけでトロフィーがもらえる。トロフィーの内訳はプラチナ0、ゴールド2、シルバー3、ブロンズ3と集めやすさは尋常では無いがそのために440円を払うまでも無いだろう。
さらに旅人に会って貰える言葉は「絵を描くのは方法がわからないときは簡単ですが、行うと非常に困難です」などの見覚えのあるガバガバ翻訳である。
「絵を加工する」「直訳された名言を踏む」以外にこのゲームで出来ることはマップをうろつく事しか出来ない。マップをうろついても出来ることは「椅子くらいの物の上にジャンプして乗る」「ドアがなく何も置いていない家の中に入って出る」くらいでアイテムもなく、ジャンプ以外のなんらかのアクションを起こすことは不可能である。
これらのことからバカゲーとして名高いSteamの「Goat simulator」の良いところとヤギを抜いてキャンバスを置いただけのゲームと言ったスレ住民もおり、ドリキャンは無事話題作に入った。

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2つ目は7/2にSwitchで発売された「ファイナルソード」(以下ファイソ)である。

発売前からしょぼすぎるグラフィック等で見えている地雷と称され、発売後もゼ○ダの伝説からのBGMパクリ疑惑など様々な形で話題となっていたがその中身は叩けば叩くほど埃が出てきて、しかもその全てが発見する度に思わず誰かに話したくなる、非常にシュールかつ味わい深いクソゲーであった。発売されるたびKOTY Wikiがアクセス過多でダウンし、スレも一気に加速した。
さらに先程言ったパクリ疑惑からか配信後4日で配信中止になってしまった。スレ住民は「配信中止の場合、対処はどうするか」「4日しか配信していないのに検証できる人はいるのか」と心配になった。だがそんなことは杞憂だった。何人もの人が検証し、問題点を挙げてくれた。
このゲームがここに来たのかと言うと「実力不足」だからである。
KOTYらしくないがまずは良いところから書かせてもらおう。
『絶対に勝てない』場面は少なく、工夫次第で十分クリア可能な範疇である歩けば歩くだけ必ず強くなれるオープンワールドらしい作りをしていてモンスターと戦って経験値やお金を稼げるのはもちろんのこと、フィールドにもダンジョンの中の宝箱の数がとても多く、中身はそこそこの確率でステータス永続アップ系のアイテムである。
モブのセリフが大体ひとつの村につき、進行に応じて2~3パターンはあると見て間違いなく定期的に変わる。キングダム等の何度も訪れる施設ではさらに多い。また、基本動作が5種類あり、スキルや魔法、オートセーブ実装などシステムだけ見ると意外なほど作り込まれている事が分かり、これらから作者たちの熱意が感じ取られる。
そして問題点だが、モンスターはとても固いせいでレベル上げが大変、や凍結で動けなくなってはめられる、など様々なところのバランスが悪い。そして何度見ただろうか翻訳がひどい。一応パッチで少しは修正されたがスレ住民は「当然んじゃろ…!」や「ここは人間ごときが来る場所ではない」など修正前のファイソ語録をうまく使いこなしていた。中途半端に遊べるが故に先へ進めてしまい、後半になるにつれて理不尽な要素に出会う機会がどんどん増えていく。この「遊べるからこそ、誰もがクソ要素に辿り着いてしまう」という点も本作の特徴であると言えるかもしれない。一見遊べそうな作りは、それこそがクソストレスへの入り口、巧妙な罠であった。反対意見など無く満場一致でファイソは話題作に入った。

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寒さが蔓延る12月。4本目のゲームが見覚えのある姿で出てきた。

12/3発売にSwitchで発売された「テニス オープン 2020」(以下テニス)である。

去年のクソスポーツゲーム大集合に憧れたか一年遅れてここに来た。
このゲームがここに来た理由は…また「つまらない」からである。
キャラは自動移動なので基本的にはスティックでボールを打ち返すだけだが技がなくただただコートの端を狙いながらラリーを繰り返す作業なのですぐ飽きが来る。
また、自動移動の位置取りが悪いのか普通なら返せるボールでもボールの上を振ったりボールが脇の下を通っていったりボールが体をすり抜けたり振った時背中に通っていく事が多々ある。同じようなボールでも返せる時と返せない時があるので条件は不明だが相手サーブを返す時に発生しやすく、プレイヤーが操作するのはボールの強さと打ち返す位置だけなのでそういうボールを打たれたら空振るしかない。
そして全体的にグラフィックが荒い。相手選手のキャラの体は分からない。
試合中プレイヤーと相手選手とコートにある最高速度のメーター以外は動かない。
審判もボールボーイも全く動かない。観客に至ってはダンボールのようなグラフィック。
ボールは後ろの壁をすり抜ける事がかなりあるので(試合には関係ないが)この部分でも手抜きを感じさせられる。

問題点は本当にただただつまらないと選評者は言い、スポーツの虚無ゲーは去年にもあったが今年も無事話題作に入った。

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年が明け1月。未だ収まらぬコロナの脅威の中、そろそろ選評を締め切ろうかと言った時に奴は話題に出て来た。

11/5にSwitchで発売された「爆丸 チャンピオンズ・オブ・ヴェストロイア」(以下麦芽)である。

このゲームがここにきた理由は「こだわりが感じられない」からである。

全体的に話が薄く深みもないが王道の子供向けストーリーで分岐的なものは無く一本道。また、爆丸の世界観を知っている前提でストーリーが進行するため、中盤に到達するまで爆丸とヴェストロイアが何かは説明されない。ラスボス討伐後もスタッフロールは無く、イベントがあっさりで住民のセリフも変わらないためクリアした達成感が感じられない。クソゲーの華であるBGMは種類が少なく、マップ上では車の音や風のせせらぎを楽しむことが多い。
アイテムがキラキラ光る場所に落ちているがあまり大きくはないので見落としやすく、なのに爆丸だったりする。また、セーブやロードがなく、タイトル画面には「はじめから」の文字も無い。そしてオートセーブであるがどこでセーブしているかは明確には分からない、などシステムやアイテム配置が適当感がある。
バトルは3体の爆丸を交換しながら行うが、相性が悪くても強いアビリティを3回くらい当てれば大体倒せるため深く考えなくても何とかなる。
公式PVやパッケージの裏では80種類以上の爆丸が登場するとされているが、基本的には 16体と隠し爆丸の1体である。基本的な爆丸は5つの属性(火水風光闇)があり、それぞれ色が違う為16×5=80としてると思われる。(隠し爆丸は金属性の1種)
しかし原作カラーは初期形態であり、序盤以降は恐らく原作ファンはしっくりこないカラーリングとなる。
また、トレトロス→トレトラスや、マクサドン→マックソドンなど大体の名前がアメリカ風に改変されている。なお逆に合っている8体は国内で玩具が販売されているものであり原作要素が実質16体の爆丸と1人の人物のみであり、名称も異なっているなどキャラゲーとしても再現度は低い。
そしてこのゲームにはまたも翻訳問題がある。
日本語として言っていることがわかりにくい、わからないもの
「秘密こそ、この黄金社会を束ねる糊さ」
「バスター始まる 中心街でバスターを探す。いいんじゃない」(サイドクエストの表記)
そして、タイプミス
「うごく楽しかった!次はいつだ?」
「この爆丸コントローラーがあれば、麦芽は大人より子供の言うことをきくものさ。でも、やっぱり変だ。」
最後にそもそも訳していないものや言語が違うものもある。
「I once found Bakucoins on top of a trashcan,isn’t that weird?」
「〇〇、我可以加入你的隊伍嗎?」(隠し爆丸が主人公に呼びかけて仲間になろうとするシーン)
などどうしてこうなったと疑問になるものもある。
最後にテキストの問題だ。
会話テキストは1文字ずつ右に表示されているが、一定の文字数になると既に表示した文字も下へ改行され、文字の大きさも微妙に変わる。こちらに関してはAボタンで全文表示にできる。「、」で改行する文も多く違和感を感じさせる。
また、チュートリアル等の説明のテキストボックスで幅が固定されて文章が表示されるため、1行で無理やり表示させている結果、switch本体モニターでは1ミリ程度の文字サイズとなってしまう場面がある。
キャラゲーあるところにクソゲーあり。麦芽も無事話題作に入った。

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以上5つのゲームが今年の大賞候補である。
ガバ翻訳で名作をここまで陥れた「ケンタ日本語版」
虚無の真髄を極めた「ドリキャン」
沢山のツッコミどころで沢山の人を笑いの渦に巻き込んだ「ファイソ」
去年のスポーツクソゲーを追いかけた「テニス」
今までのクソゲーをなぞるようにクソ要素を集めた「麦芽」
以上5つのゲームが今年の大賞候補である。
海外への渡航を自粛している中、奇しくも海外産のクソゲー5作品のみであった。
それでは今年の大賞を発表しよう。
2020年クソゲーオブザイヤー大賞は…


「Dreaming Canvas」である。


今まで虚無ゲーが大賞に選ばれたことは少なく、2013年のHIPと2019年のサマスイぐらいだろう。
だがドリキャンはそれをも越える虚無さを持っている。
今年の他のゲームと比べよう。
ケンタ日本語版には「実績」がある。元言語版で翻訳しながらプレイすると少し無理なところもあるが世界観には浸かれるだろう。
ファイソや麦芽には「シナリオ」がある。いつか終わることは保証されている。また、そのために「終わりはどうなるのだろうか」というサマスイ現象が起きるだろう。
テニスには「目標」がある。これもいつかは終わることが保証されている。
それに比べ、ドリキャンにも「目標らしきもの」はあるが彩度などを調節し、旅人の周りに突っ立っているだけな達成感も感じられないものが長く続くためテニスよりも苦痛は強いだろう。


最後に昨今の密を防ぐ世情の中このような紙ゲーを作った会社に一言言って2020年クソゲーオブザイヤーを終わらせたい。


「ゲ ー ム の 中 身 ぐ ら い 密 に し て く だ さ い !」

総評案5 (ファイナルソード

米国からのリアル黒船と謳われた「デューク ニューケム フォーエバー」が
日本で発売されたのは2012年3月のことだった。

本作が「日本よ、これがクソゲーだ!」と言わんばかりのクソっぷりを見せつけてKOTY(クソゲーオブザイヤー)に現れて以来、
「ヘビーファイア」「赤サブレ」「ランボー」…
様々な海外製ゲームたちがKOTYに襲いかかり、スレを盛り上げてきた。
しかし、彼らの全てが、日本産のクソゲーの前に大賞を阻まれ、惜しくも敗れ去っていった。

そんな中、2019年のKOTYに現れた中国からの刺客「サマースウィートハート」は、
「虚無なのに投げ出すことを許さぬ終わりなき苦痛」を醸し出した点が評価され、
見事海外製ゲーム初となるKOTY据置部門における大賞を勝ち取った。
本作に出演した女性の一人が「これを買うなら私の写真集を買え」とまで言い出す始末であり、彼女たちに対する涙を禁じ得ない。

そして時はゲーム界に於いてもすっかり国際化が進んだ2020年。
奇しくも去年の海外勢によるKOTY制覇に続く形で、
5本の海外製クソゲーがスレを襲ったのであった。

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今年の門番が姿を現したのは4月のことだった。
Nintendo Switch/PS4/Xbox One用DL専売ADV「Kentucky Route Zero : TV Edition」(通称:ケンタ)である。

…この名を聞いて、疑問に思う者もいるかもしれない。「そんな馬鹿な」「ここはKOTYであってGOTYではない」と。
実際に、スレ住民の中にはプレイ報告を疑う者さえいた。

そもそも本作は米国から2013年から2020年にかけて5章に渡ってSteamで分割配信されていた
「Kentucky Route Zero」シリーズを家庭用に総括した作品であり、
その独創性溢れる世界観が好評を博し、海外では数々の名誉ある賞にも選出されるほどの高い評価を受けている。

最終章であるAct5の発売と同時に家庭用移植版であるTV Editionが配信を開始し、
Nintendo Switch/Playstation4/Xbox Oneの3機種版発売、
原語である英語以外にも7つの言語に対応、と
その評価に相応しい販売体制で、英国では2020年アカデミー賞のゲーム部門においても入賞を果たしている。
当然日本でも、この魅力溢れるADVが高い評価を博す…はずだったのだが、

Switch版の発売日があの「スベリオン」と同じ1月28日であること、
タイトルに「ルートゼロ」と冠しているなど、
2010年に於いて並み居るクソゲー達を退けたあの2大門番を思わせるようなフラグにより呪われる運命にあったのか、
本作は高く評価されるどころかKOTYに選評が届いてしまったのであった。

…では、何故本作がKOTYという不名誉な賞の候補に名を連ねるようなことになってしまったのか?
選評者が挙げた問題はただ1つ、「日本語訳の質が酷過ぎる」ことである。

大量の誤字脱字などはまだ序の口、口調や文体、人物や地名の表記も安定しておらず、
例として主人公の名前は原語だと「Conway」なのだが、
日本語での表記が「コンウェイ」「コンウェー」「コーウェイ」だったりというブレ具合である。
この他にも「watch(見る)」が「腕時計」、人名の「Cliff」は「崖」、「still(蒸留器)」も「まだ」などと直訳感たっぷりの翻訳、
挙句の果てには訳されてすらいない箇所が散見されるなどと、
挙げ出したらキリがないほど悲惨なレベルで誤訳が多い。

そもそもこのような誤訳は、これまでのKOTY候補においても何本か見られた。
これは特に海外インディーゲームのローカライズにおいて顕著に見られる。
前年王者「サマスイ」で見られた「はい!義母になる!」「記憶の中の匂いを掻いた」などは記憶に新しいことだろう。

だが、これまでは誤訳があったとしても、それを理由に選評が届いた作品はこれまで存在しなかった。
しかし、本作のジャンルはADV。つまり、「文字で綴る」ということを前提にした物語が繰り広げられるジャンルである。

そうなると、もはや原作の世界観ぶち壊しで
「これの翻訳者は原語版をちゃんとプレイしてねーだろ!!」と嘆きたくなるくらいに
壊滅的な誤訳は致命的な問題と呼ぶに十分と言える。

おまけに、このような誤訳のせいで、本来なら評価点になり得た他の要素が全く活かされていないのだ。
本作には一期一会の情趣を醸し出すためにログ・スキップ機能は搭載されていない。
だが、これはかつて2007年大賞作「四八(仮)」などのクソADVが証明したように、
一歩間違えれば「読み返すのも面倒な不親切なシステム」になりかねない。
本作の日本語版はただでさえ誤訳があるために
「話のわけが分からないのに読み返しにくい」という状態なのだ。

また、想像力を阻害しないために本作のグラフィックはわざと抽象的になっているのだが、
日本語版では「文章が意味不明だからグラフィックから想像を膨らませ脳内補完するしかないのに、
そのグラを見ても何が起こっているのか分からん」という有様である。

そして、この余りにも酷過ぎる惨状であったため、7月14日にアップデートが実施された。
選評者も「アップデートで誤訳が直ったら選評は取り下げる」という旨の発言をしており、
これでやっとまともに楽しめるようになり無事に日本でも良作と称えられる…と思われていた。

確かに、このアップデートの恩恵で、流石に支離滅裂な機械翻訳は減ってはいる。
しかし、「十分おかしいが壊滅的ではない」程度の誤訳は放置されたままである。
これでは選評者に「明らかに目立つ部分だけ、やっつけで処置したんだな」と切り捨てられても仕方がないことである。

一応は読めるようになり、「明らかに破綻した翻訳のせいでろくに読めない」状態ではなくなったものの、
今度は「読めたって結局わけが分からない」と、別種の業が深いクソゲーになったと言えよう。
選評者も「これだけでクソゲーから脱却できたとは言えない」と、選評を取り下げることはなかった。

「元は名作だが誤訳だけで全てが台無し」という前代未聞のクソゲーの登場にスレでは扱いに揉めたものの、
「日本語版がクソならクソゲー」と判断され、結局本作はKOTYに於ける令和初の門番となったのであった。

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そして7月。KOTYに向かって、立て続けに2本の夏の怪物がやって来た。

まずは7月1日、PS4のDL専売ソフト「Dreaming Canvas」(通称:ドリキャン)の登場である。
このゲームは、「目的地を自由に選択し、風景の回りに散らばっているキャンバスを見つけ、絵を描く」という内容のもと発売されたソフトである。

では早速プレイを開始して、マップの中に4つほど設置されているキャンバスに向かってみよう。
なるほど、キャンバスの位置には目印となるように光の柱が立っていて分かりやすい。
さぁ絵を描いてみよう。…おや、絵を描こうとしたが何かがおかしい。
絵を描こうとしてもそこにはフィールドの風景が何故か自動で写し取られ、
プレイヤーに出来ることは、彩度や輝度などの5つのゲージを調整するだけ。

そう、何とこのゲーム、お絵描きゲームであるはずなのに自分で絵が描けない。
「は!?」と思うかもしれないが無情にもこれは事実である。
これだけでもゲームとしては十分論外と言えるが、それ以外の要素も見ていこう。

まず、このゲームのマップにはプレイヤーの他にも何人かの旅人が存在する。
だが彼らに話しかけることは出来ず、ただひたすらにそこに立っているだけの「風景」に過ぎない。
そして、そんな彼らを見つめることで何故かトロフィーを獲得することが可能である。
しかしそれらの名前は「Dadaism」「Realism」「Fauvism」といった芸術思想の名前で、
キャラとの関連性が皆無である。

また、マップ内には名だたる芸術家たちの名言が各所に見られるが、その内容が
「絵を描くのは方法がわからないときは簡単ですが、行うと非常に困難です」
「私は再び立ち上がるすべてにもかかわらず、私は私の大きな落胆なために私が捨てた鉛筆をとり、私は自分の絵を続けます」
「すべてのアーティストが最初にアマチュアでした」
などと、門番の「ケンタ」を彷彿とさせる直訳感溢れる翻訳である。

「絵描き要素」「旅人との交流」「名言」と、あらゆる点が壊滅的な本作で出来ることは、
はっきり言って「マップをうろつく事」くらいしかない。

2017年の「SHOOT THE BALL」、2018年の「GEM CRASH」、2019年の「球兄弟」に続いて現れた、
もはや毎年恒例になりつつある低価格の虚無ゲーは、総評では作中に出てくる名言(?)を借りて
「自然からの絵画はオブジェクトをコピーすることはありません」と言わしめ、
「面白さを感じる部分は一つもない。絵を描く達成感もなく、描き終わったあとする事もない。本当に何もない。」
「Steamの『Goat simulator』の良いところとヤギを抜いてキャンバスを置いただけのゲーム」
という感想をスレ住民が残すなど、これまでに大賞を取った虚無ゲーにも劣らぬゲー無ぶりを見せつけ、
本年度の夏の怪物として話題作入りを果たしたのであった。

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続いて、ドリキャン発売の翌日に、次なる夏の怪物が控えていた。
それは3年前の「Operation 7」と同じく、お隣の韓国から日本海を越えてやって来た、
Nintendo Switch用DL専売アクションRPG「ファイナルソード 英雄の誕生」(通称:ファイソ)である。

本作は2019年にスマホゲームとして販売したものを家庭用に移植した作品で、
とても令和の時代とは思えないPS1初期レベルのグラフィックなどから、
発売前から「見えている地雷」としてKOTYスレに限らず、ネット界隈において話題になっていた。

そして7月2日に満を持して発売されると、何と『ゼルダの伝説 時のオカリナ』からの音楽パクリ疑惑が発覚。
当然任天堂もこれを許すはずがなく、7月6日に本作を販売停止にしてしまい、
スレでも本作の扱いに揉めていた。

どちらにせよ、購入可能な期間が4日間しかなかった本作を検証するのは、
そもそも購入者が絶対的に少ないため非常に困難である。
そのような状況において、検証を行い選評を書くことのできる住民はいるのか?
配信停止になった作品の扱いはどうするのか?

スレでもファイソの話題で大いに盛り上がり、Wikiもアクセス過多でダウンしてしまう事態に陥った。
…だが幸いにも、こうした状況においても、僅かな販売期間の間に購入し、選評を提出した勇者が無事に現れた。
では、本作の問題点を紹介していこう。

まず1つ目は、理不尽な「戦闘バランス」である。

普通にプレイしていたら目的地に辿り着いてもレベルが適正値に全然届かないのは序の口、
「ちゃんと命中しているはずなのに敵がやられていない」といった当たり判定の雑さ、
ボスがやたら硬い上に攻撃力は高い、
攻撃を食らったあとの無敵時間がないため、ダウン状態から起き上がったらすぐ追撃を食らいハメられる、
しかもダウン状態ではアイテムの使用が封じられるため、どれだけ回復アイテムがあったとしてもハメられたら最期…。

等々、本作は戦闘のゲームバランスに多くの難を抱えているのである。
多くの人はこの理不尽さに耐えかねて投げ出してしまうことだろう。

2つ目は、各所に見られる「調整不足」である。

本作は制作者の技術不足もあってか、全体的に調整不足な点が見られる。
例を挙げると、敵から手に入るお金の量に対してショップでの商品価格が高すぎる、
メニューを開こうとすると少し遅れてメニュー画面に移る、
アイテムは1種類につき20個まで持てるが、10個以上持っていると在庫切れで商品が買えなくなる、

といった、「ここはもうちょっと改善できなかったの?」と思えるような細かい部分に至るまで調整不足が見られる。
これが先述の理不尽さに拍車をかけていると言えるだろう。

そして3つ目は、もはや本年のお約束である「翻訳文」である。

本作には「ケンタ」や「ドリキャン」のような誤訳とは言えないものの、
意味は通じるが直訳感を感じてしまうような文章や、
不自然を感じるような文章がところどころに見られる。

では、例として、OPにおける主人公と両親の会話シーンを見てみよう。

『父さん、モンスターの襲撃が激しくなっています。
「大変な事になったな。村の外には出ずに気を付けろよ。
『母さんを治す薬を僕が必ず手に入れてきます。
「だめだ、お前にはまだ危ない。私がすぐに行くから出ていくなんて考えるなよ。
『でも...母さんが。
『母さんはすぐに良くなるから。もう少しだけ辛抱なさい。
「私の事は放っておいて絶対に危ない事はするなよ。

別のシーンでは、

「ここはビールがめちゃくちゃうまい
「小僧、俺がどこに住んでるのか知っているか?
『2階の家クリムおじさん、わからないんですか?
「そう、俺はおおらかなんで門を閉めて外に出ない
「でもこっそり入るな...
「時々泥棒が入ってる気がする

レベルアップ時には「LEVEL Up」と画面の上部に大きく表示された後に、

「防御力が2上昇します」
「攻撃力が3上昇します」

…というように、不自然な台詞や文章が各所に見られる。
ユーザーからの指摘を受け、流石にこれは直そうということになり、
一部の台詞は後にアップデートで修正された。

この他にも様々な迷言が「ファイソ語録」としてまとめられ、
見事に見た者をたちまち笑いの渦に巻き込んだのであった。

この他にも、類い希なる「ネタ性」も忘れてはならない。

先述のクソ要素もさることながら、本作には様々なネタ要素が含まれる。
冒頭で述べた「BGMのパクリ疑惑」や先述の「不自然な会話」だけに留まらず、
某所にて登場する、移動する足場では何故か慣性の法則が働かず「リフトだけ移動し主人公が落ちる」、
主人公が池に入ると「沈んでしまい、いきなり視点が変わってそのままゲームオーバー」、
ゲーム序盤で手に入れた母親のために持ってきた薬草を「剣を持っている手で、飲ませるのではなく渡すだけ」
偽者の国王が正体である魔王に戻り、いきなり「主人公を突き飛ばし走り去っていく」、
というように、本作には挙げ出せばキリが無い程のツッコミたくなるようなネタ要素を抱えている。

本作がここまでネットを騒然とさせただけあり、本作のクソゲーとしてのインパクトは
KOTYに取り上げられるにも十分であると言えよう。
先述のように配信停止となっていたため扱いには揉めたものの、
結果として本作も夏の怪物として話題作入りを果たしたのであった。

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ほぼ同時に現れた2本の夏の怪物を乗り越え、時は11月。2020年も年末が迫ってきた時である。
キャラゲー界に、とある問題作が姿を現していたのだった。

Nintendo Switch用RPG、「爆丸 チャンピオンズ オブ ヴェストロイア」(通称:爆丸)である。

そもそも爆丸とは、かつてKOTYにおいて、2007~11年までの間、
5年連続でノミネート作を出し続けた古豪「タカラトミー」が販売を手掛ける変形玩具で、
本作はそんな爆丸を題材に米国のWayForwardが開発した作品である。

そう、本作には「玩具ゲー」「キャラゲー」というこれまでKOTYにおいてクソゲーフラグとなっていた要素に加え、
本年の他の候補作からも分かるように「翻訳ゲー」という新たなフラグを兼ね備えていた本作は、
やはりスレでも検証前から見え見えの地雷として出来を危惧されていた。

また本作は、本年の候補作における唯一の「フルプライス」且つ「パッケージ販売」の作品となっている。
なお2019年にはこのいずれも一本も候補入りしておらず、
クソゲーもDL専売が当たり前の時代になったことが窺える。

年が明けてその存在をとあるスレ住民が呼び掛けたところ、
早速有志たちは2年振りに現れたフルプライスの地雷に飛び込み、早速検証を実施した。

まず、『理解困難なストーリー。』

本作のストーリーを簡単に説明すると、
主人公たちがサッカーをしていると主人公が落ちていた爆丸を拾い、
そこからいきなり企業との爆丸バトルを繰り返す。

というような一本道型となっている。
これだけならまだいいのだが、何故かタイトルにある爆丸はストーリー中盤まで一切説明がないという始末。
購入者は爆丸を知っている前提であるためそれ自体は致命的な問題点ではないのだが、
例え原作を知っている者であったとしても、理解不能に陥りかねない要素があった。

それが次の問題点、もはや本年の候補においては標準搭載のクソ要素となる『翻訳文』である。

本作の翻訳問題は大きく3つに分かれる。
1つ、「日本語として不自然な訳語」。
例として、
「秘密こそ、この黄金社会を束ねる糊さ」
「君が最後の参加者だから、問題ないさ。腹が減るってどういうことかわかるだろう、作業がつらくなる。」
バス停なのに「地下鉄の営業が再開したぞ!」

これ以外にも、女性キャラの一人称が普通に「僕」や「俺」になっているジェンダーレス状態、
爆丸の名前がアニメでは「マクサドン」だったのにゲーム版では「マックソドン」など、
安定しない表現が目を引くのである。

2つ、「誤字脱字」。
「うごく楽しかった!次はいつだ?」 
「この爆丸コントローラーがあれば、麦芽は大人より子供の言うことをきくものさ。でも、やっぱり変だ。」
何とタイトルである「爆丸」までも誤植するという噴飯物の失態を犯す始末である。
「流石にこれくらいは気付けよ」と思われても致し方ないだろう。

3つ、「そもそも訳していない」。
「I once found Bakucoins on top of a trashcan, isn’t that weird?」
「〇〇、我可以加入你的隊伍嗎?」

先述の杜撰な翻訳の前では「もはやこっちの方が意味が分かる」と思えるかもしれないが、
こんな中途半端な翻訳は決して許されるものではない。
このように、「ケンタ」にも匹敵するようなクソ翻訳のせいで、
例え原作ファンであっても混乱してしまいかねないのである。

最後に、『RPGとして見た時の問題点』だ。

「アビリティの効果説明がない」
「補助・回復技の意味が皆無」
「アビリティを発動するのに走り回ってエネルギーを集める必要があるが、単調な作業で時間がかかる」
「80種類の爆丸が使えると言っておきつつ、それは色違いで実質16種」
「一応属性相性があるけどそのバランスも崩壊している」
という有様で、結局高火力のアビリティに頼ればいいという
戦術もヘッタクレもない戦闘バランスになってしまっている。

この出来では、「こんなんでいいだろ」という魂胆を持ちやっつけ仕事で作った作品と言われても仕方がなく、
ファンアイテムとしても微妙な出来と言わざるを得ない。

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そしていよいよ12月。爆丸に先立って、スレでは本年の年末の魔物と思しき、見えている地雷が発見されて、処理に取りかかっていた。

Nintendo Switch DL専売テニスゲーム「テニス オープン 2020」(通称:庭球)である。

本作のPVを確認すれば分かるように、
「不自然なボールの軌道」
「全体的に手抜きなグラフィック」
「何か選手の動きが変」
と、PVからして香ばしさを醸し出しており、
検証の結果、さらなる香ばしさに満ちていたことが判明した。

何と本作のキャラは自動移動で、プレイヤーにできる操作は、
ただ左スティックを動かしてボールの方向や勢いを調節するだけ。
そのため返されたボールの位置や、本作に見られる当たり判定の不備のせいで
状況によっては絶対に返すことが出来ないなど、
公式が謳う「本格テニスゲーム」とは言い難い、
簡素過ぎて虚無な内容だったのだ。

公式も「プレイヤーの移動は自動なので、ボールの方向、ドロップやミドルレンジショットなどを選択するのみといった、とてもシンプルな操作方法。」と公言しているため、
一応開発側が目指そうとしたものは成立している。

だがそのシンプルさを売りにしようと追求しすぎた結果、
本作はテニスゲームの魅力を悉く潰した失敗作となってしまった。

選評者も本作を「ただ左スティックだけでボールを打ち返すだけのゲーム」とまとめ、
「ただただつまらない」と嘆かれるような始末であった。

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以上5本が、本年の大賞候補となった作品である。
誤訳、虚無、システムの不備…国際色豊かなクソゲー達が勢揃いした2020年のKOTY。
2012年や2013年を彷彿とさせる世界規模のウォーゲームは、一種のクソゲーオリンピックとも言えるだろう。
そんな中、大賞という名の金メダルを授かるに相応しいと認められ、見事17代目の王者に輝いたのは…



「ファイナルソード」である。



本年の候補は殆どの作品が「翻訳」における共通の問題を抱えており、
中には「これだったら2016年の「TORO」のように翻訳すらない方がマシ」と思えるような作品もあったほどである。

しかし、どの作品も決定的な理由となる要素に欠けており、議論が難航していた。
埒が明かない審議が続く中、
「もうどれが大賞でもいいよ」
「今年は大賞なしでも良くないか?」
「ここまでグダグダならわざわざ決めなくてもいいだろ」
「いっそのこと全部大賞にしてしまえば」
といった意見もスレ内で散見された。

実際に、本年には「庭球」以外の4本のいずれかを大賞とする総評が1つは届いていたものの、
それぞれが決め手になる要素などの面から不十分であることが指摘され、選考は完全に停滞してしまい、
あるスレ住民はこの状況を「作文コンクールのスレ」と揶揄した。

だがそんな中、「ファイソ」は、他の作品にはない特殊な性質を持っていた。
「数多くのクソ要素を持ちつつも、それらを笑いや面白さに昇華させる『笑えるクソゲー』」であることだ。

これまで我々が大賞に選出してきたクソゲー、
特に「四八ショック」以降の大賞の多くは、
「つまらない、ただただ理不尽、達成感が無い、苦痛、虚無」…
そのような理由でまともに楽しめない、所謂「負のクソゲー」であった。

特に2012年の「嵐」は、あまりに難解なゲームシステムと、
どれが仕様でどれがバグか分からないというカオスっぷりから、「ゲー霧」、
2015年の「アジノコ」は、その余りにも理不尽極まるバグと劣悪なUIから、
拷問と言っても差し支えないような苦痛を醸し出し、「賽の河原」と称されるまでに至った。

本年の他の候補も
誤訳のせいで読み返すのも苦痛となってしまった「ケンタ」、
まともに出来ることがない究極の虚無「ドリキャン」、
杜撰な出来栄えでファンを失望させたクソキャラゲー「爆丸」、
簡素過ぎて楽しめなくなってしまった「庭球」、

と、これまで我々が扱ってきたような負のクソゲーであったと言える。

そんな中、「ファイソ」は、
「戦闘面における理不尽なシステム」「全体的にチープな造り」「理解不能でこそないが不自然な訳語」といった難点を持ちつつも、

「やられた後の復帰が楽」「数々のネタ要素」「戦術性や演出への手の込み具合」などの点が評価された。

その理不尽な内容、技術不足からクソゲー扱いされながらも、
独特のネタ要素やゲーム性が一部のゲーマーを魅了し、
開発側も問題を素直に認め、獲得したファンへの期待に応えようとするゲーム。
そんな本作から我々は、過去の同じような特徴を持ったあるクソゲーを思い出したのではないか?

そう、1990年代を代表する伝説のクソゲー「デスクリムゾン」…
本作もファイソと同じように、多方面に数々の問題点を抱えながらも、
そのチャレンジ精神や独創性が評価され、ファンを獲得した。

ファイソもまた、同じような経緯で人々の話題を攫い、一部では「令和のデスクリムゾン」と称する者もいる。

「ファイナルソード」は、端的にまとめると「粗は多いが笑える」タイプのクソゲー。
我々は、今までの楽しめない負のクソゲー達のせいで忘れかけてしまった、
かつての笑えるクソゲーを思い出す事が出来たのだ。

我々はそんな懐かしの笑えるクソゲー達を思い出させてくれた貴重な存在として、
2020年のクソゲー大賞を「ファイソ」に贈るものとする。

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2020年は国際色豊かなクソゲーが揃う一年だったが、日本でも動きがあった。
2008年から2017年にかけて据置・携帯・エロゲーの3部門で
延べ13本の次点以上を記録し、内4本の大賞という記録を達成した、
クソゲー界の名門「システムソフト・アルファー(SSα)」がゲーム市場から撤退、
ゲーム部門を日本一ソフトウェアの子会社である「システムソフト・ベータ(SSβ)」に継承して再始動を果たしたのである。

SSαがスレに登場して以来、「文字通りα版同然の作品」など様々な問題作を世に送り出した彼らに対して、
過去のスレでは「早くSSβに進化しろ」と言い放つ者もいたが、そんな皮肉は遂に現実になったのである。

彼らがこれまでの反省を活かし、これからも最後まで信じ続けたファンを
喜ばせるような作品を作り上げることを、スレ住民一同より心から願いたい。

また、大賞を受賞した「ファイナルソード」も、配信停止から約半年後の
2021年1月21日に「ファイナルソード Definitive Edition」として無事に配信が再開された。
HUP Gamesにはこれからも技術を磨き、人々を楽しませるような作品を作り上げてもらいたいものである。

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それでは、見事大賞を受賞した「ファイナルソード」の販売・開発元であるHUP Gamesに向け今後の期待を込めて、
同作の某シーンにおける魔王との会話になぞらえた、
我々がファイソによって受けた衝撃を示しつつ本年を締めくくりたいと思う。

 「これまでの負のクソゲーばかりで窮屈だった!!!クアアア!!!
 しかし貴様、まさかわしに笑えるクソゲーの存在を思い出させるとは...」

総評案6 (ファイナルソード

ネットワーク環境発達によるダウンロード販売の一般化と、大手メーカー各社のインディーズ取り込みにより、据え置き業界参入のハードルは年々低下し続けている。

2019年は、そうした時代を象徴する一年となった。

話題に上った6作品すべてが、ロープライス帯のインディーズ作品だったのである。
最低限のリソースすら欠如した集団が生み出した魔物による頂上決戦は、フルプライス作品では到底手の届かない遥かな低みに至り、ゲームとして呼ぶべきかすら怪しい汚物たちによる地獄の殴り合いが繰り広げられることとなる。

クソのバトルロワイヤルを制して見事大賞の座を勝ち取ったのは、『サマースウィートハート』であった。

魅力的な美少女たち、実力派の声優陣、そして何より、明確に「ゴール」が示されているそのゲーム性。
ひとさじの希望が混入することによって、絶望がさらに威力を増すのだということを、サマスイは我々に教えてくれた。

ゲーム業界の大きな変容は、KOTYスレにも無視しがたい変化をもたらした。
果たしてスレ住民は新たな時代に適応できるのか。
2020年は、まさに試練の年となった。

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2020年最初の訪問者は『Kentucky Route Zero: TV Edition(ケンタ)』。Switch版、PS4版共に1月末の発売ながら、選評到着は4月と遅れる展開になった。

それもそのはず。
本作は2013年に『Rock,Paper,Shotgun』よりGOTYを授与され、全5章に分けて配信されたそのすべてがメタスコアで80点以上を獲得している文句なしの名作である。
このようなゲームにスレ住民が興味を示すわけもなく、報告が持ち込まれるまでは話題になることすらなかった。

ではそのような名作がいかにして航路上で腐敗し変わり果てたのか……それは本作独自の性質と、これを完膚なきまでにぶち壊した翻訳の杜撰さによる。

『Kentucky Route Zero』は「究極の雰囲気ゲー」である。
本作の主軸となる物語は、平凡な人間の取り留めのない日常の積み重ねだ。これを彩るのは抽象的でありながらも精緻なアニメーションと、現実、非現実が当然に同居している『マジック・リアリズム』の導入、適切なペースで挟み込まれる選択肢の数々。

そして何より、視点はおろか体裁すらも多彩に変化し、その一字一句に至るまでが演出として活かされている独特のテキスト。

緻密に設計された作品全体に漂う独特の雰囲気こそが、本作のストーリーテリングの手段なのだ。

翻って、本作は大まかなプロットを見ただけでは、その素晴らしさは理解できない。
演出を埋もれさせないために敢えてプロットレベルでの起伏は抑えられており、分かりやすい起承転結からも距離を置いている。
ゆえに物語の概要をかいつまんだだけでは、平坦で平穏な人々の営みに「談笑する骸骨」や「家を運ぶ大ワシ」が闖入する、退屈と不条理がごちゃ混ぜになったカオスしか見えてこないのだ。

それを台無しにする翻訳の低劣さとは、一体どのようなものか……

華氏やフィートといったなじみの薄い単位、「A/C」のような日本的でない略記がそのまま用いられているのはまだいい。
文学的表現を台無しにする無粋な直訳や、言語としての体裁すら崩壊した機械翻訳の数々、更には単純な誤訳までが頻発し、人物の口調や文体までがごちゃごちゃに入り乱れ、主人公の名前すら表記にブレが生じている有様。
挙句のはてに誤字脱字までが頻発しており、翻訳以前の問題として、日本語の文章としてろくに推敲されていないのが明白である。

いや、そもそも翻訳の「ひどさ」は本質ではない。

この作品の日本語化は、さながらカントリーミュージックを日本語に直すようなものだ。
単に歌詞を教科書的に「翻訳」するだけでは意味がない。
リズムや言い回しに含まれた意味を全て拾い上げ、邦楽として新たに作詞しなおす、そのように繊細な分解と再構成が求められるその作業であったはずなのに、実際は上述の通りである。

致命的な誤訳、珍訳、直訳の数々を乗り越え、どうにかその元の意味を読み解いたところで、個性的な「マジック・リアリズム」の不可思議に耽溺することはできず、理解困難な混沌が、プレイヤーの脳を揺さぶりつづけるだけだ。

選評到着後、致命的珍訳部分は若干の改善を見たものの、結局この作品の雰囲気をよみがえらせるには程遠い水準にとどまった。

かくしてGOTYに輝いた不朽の名作が、2020年KOTY門番の座を勝ち取ったのである。

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2020年度の2番手はPlaystige Interactiveから発売された『Dreaming Canvas(ドリキャン)』だ。

その性質はただ一言、「無」である。
もはや毎年恒例となった低価格虚無ゲーの到来であるが、今年の虚無はなかなかにレベルが高い。

何しろプレイヤーのやることが、
1.マップをうろつく
2.キャンバスを見つける
3.表示された映像の色調を補正する
以上である。

他にできるのはフィールドに隠された名言を見つけたり、会話もできないNPCをにらみつけてトロフィーを獲得する程度。
本作の販売ページには「夢の風景を描く」と紹介されているのだが、誇大広告と言わざるを得ないだろう。

この隠された名言の方も訳が今一つ。

例えばポール・セザンヌの「Painting from nature is not copying the object.」を、この作品はこう訳す。
「自然からの絵画はオブジェクトをコピーすることはありません」
原文をそのまま載せたほうがマシであろう、見事な直訳だ。

根幹であるお絵描き要素がスマホのカメラアプリ未満の自由度しかなく、馴染みのない表記がされる外国人の名言も心に響くことはない。
超えるべき障害物もないのになぜかジャンプ機能を搭載してるあたりも、却ってこの作品の虚無性を強調しているかもしれない。

他の追随を許さない圧倒的な虚無性が認められ、ドリキャンは本年2作目の話題作入りを認められた。

ちなみに、先述したセザンヌの名言には続きがある。

「It is realizing sensations.(それは感動を具現化することなのだ)」

もはやこれ以上は語るまい。

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ドリキャンの選評到着直前、スレ住民の注目はある作品に集中していた。

その名は『ファイナルソード(ファイソ)』。

発売前より見た目のチープさから注目が集まっていたこの作品は、発売されるとその見た目にたがわぬ低クオリティぶりによってスレの話題を席巻し、否応なく選評への期待が高まった。
BGM無断使用問題により4日で配信停止と相成ったにも関わらず、そのわずかな期間に本作を購入したプレイヤーからのプレイ報告も続々と到着し、10日後には無事選評が到着、その真の姿が詳らかにされた。

最初に言及すべきなのは、プレイヤーキャラ(PC)の仕様に関しての作り込みだ。
グラこそチープだし、モーションも今一つ爽快感にかけるものだが、アクション自体はしっかりと基本を押さえている。
隙の少ない弱攻撃、敵を怯ませやすい強攻撃、様々なスキルや魔法を取り揃えている。射撃魔法使用時はカメラがTPSのように遠方へ集中するので比較的遠距離での交戦も可能。
ディフェンスに関しても無敵時間のある回避、盾によるガード、敵をスタンさせるパリィが用意されており、プレイヤーに豊富な選択肢を提供している。

この豊富な選択肢は、特に1vs1の戦闘を盛り上げてくれる。
弱攻撃を安全に差し込むのか、強攻撃で更なるチャンスを狙うのか。
敵の攻撃を無難に回避するのか、或いはパリィによりスタンを狙うのか。
魔法を使えば更に安全に攻撃が可能だが、さりとてMPには限りがあり、これをどのように配分するのか。

ソウルシリーズのような名作とは比べるべくもないが、ゲームとして最低限の出来栄えには達していると評して良いだろう。

……PCだけを見れば。

実際にゲームの完成度を決めるのはPCばかりではない。
そのPCが気持ちよく敵を倒せる環境が有るか、これが何より重要だ。
PCと環境の相性さえしっかりしていれば、ダッシュとジャンプしかできなかったとしても奥深いアクションゲームが成立するし、その逆もまた然り。

その点、本作は環境の構築に失敗している。
起伏や障害物に乏しい平らなフィールドばかりが連続するため、敵の視界や移動方向を制限する手段がなく、敵に簡単に包囲されてしまう。
そのくせカメラやプレイヤーの向きを察して「順番待ち」をするような配慮もなく、背中からだろうが容赦なく攻撃してくるのだ。
このため上述したような1vs1の戦闘が成立する場面は稀である。プレイヤーは包囲を避けるためにドタバタと走り回り、隙を見てチマチマと攻撃を加えていくほかない。
方向を限定できないためガードやパリィの使いどころも少なく、魔法も使用時のTPS的カメラワークのせいで視界が狭まるため通常フィールドでは使いづらくなってしまう。

数多くのアクションを搭載していながら、結局実際の戦闘で使用するのは前転回避と一部の近接スキル程度でしかない。

ではボス戦ではどうかと言うと、こちらも問題を抱えている。
序盤こそ1vs1の決闘が成立しているのだが、中盤以降はほとんどのボスが雑魚敵と連携を取るようになるため、結局ドタバタ走ってチマチマ差し込むスタイルに頼らざるを得ない。
場所によってはこのザコが状態異常弾を発射してきたりもする。
状態異常弾は超低速で、いつまでもフィールドを漂い続ける。これにうっかり接触してしまうとスロウや凍結に陥り、すかさず猛打を加えてくるボスにハメ殺されることになりかねない。

おまけに終盤のボス用フィールドの多くが高所に設置されており、フィールドの端には崖が存在する。
落下すれば問答無用でGAMEOVER。
モンスターの巨躯を見上げながら走り回っていると、いつの間にやらフィールド外縁に追い込まれ、うっかり足を滑らせてしまう事態もしばしば発生する。

戦闘に直接関わらない部分もまんべんなくクオリティが低く、アイテムの販売システム、経験値のバランス、インタラクトの判定のシビアさなど、端々の調整不足によって地味にストレスが蓄積する。

テキストの不備などは一周回って逆に愛されるレベルに達している。
最早今年の標準仕様となった翻訳の不備と思しき表現や、誤字脱字に誤植の数々。
「母さんはすぐに良くなるから。もう少しだけ辛抱なさい」(病気の母親にむける息子の発言)
「はい?!?!?」(主人公のリアクション。感嘆符が更に増えるパターンも)
「当然んじゃろ」(国王陛下の発言)
などなど、これら奇妙なテキストの数々が「ファイナル語録」として様々なコミュニティで共有され、ちょっとしたムーブメントを引き起こしていた。

配信停止によりその扱いは議論され、最終的な決断は年明けまでずれ込んでしまったものの、無事選評は受理され、2020年KOTYに名を連ねることとなる。

長らくSwitch版の配信再開を望まれていた本作は、2021年1月21日に『ファイナルソード DefinitiveEdition』としてMy Nintendo Storeに帰還した。
easyモードの追加や一部動作の改善、その他端々の修正を加えながらも、根底に存在する理不尽性はそのままに、ファイナルソードは堂々の復活を遂げたのだ。
我らが憎むべき、そして愛すべきクソの命脈が無事保たれたこと、スレ住民として大いに祝福したいと思う。

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ファイソの扱いが未だ定まらなかった12月、師走の喧騒の中でスレに飛び込んできたのは、12月3日に発売された『テニス オープン 2020』であった。

そのゲーム性は実にシンプル。「スティックでショットの強弱、方向を指定する」だけ。コート上の移動は完全に自動だし、ラケットを振るのも自動だ。

分かりやすく言うと、テニス選手に「あっちへ打て」「このぐらいで打て」と指図するゲームなのである。

しかもこの選手がものすごいヘタクソだ。
同じように操作してもその指示に対する反応は毎回異なり、同じ位置で同じ操作をしてもアウトになったりならなかったりする。
それどころかしばしば空振りすら発生し、実態としてこのゲームはかなりの運ゲーにもなっている。

幸か不幸か、相手選手も同様にヘタクソだ。
何の変哲もない普通のラリーで勝手にミスしてくれるだけでなく、ショットを弱めてネット際に落とすと絶対に拾えない。

このようにヘタクソな選手の動向を見守りながら、ふんわりと指示を出す、それはゲームを「プレイ」していると言えるのだろうか?

つまるところ、この作品は「テニスゲーム」などではなく、「テニス応援ゲーム」なのだ。我々は決してプレイヤーなどではなく、単に上から目線の指図をヤジに乗せて選手を混乱させるだけの観客に過ぎない。
低劣なCGで構成された拙い選手たちの奮闘を眺め、時たまスティックを倒してヤジを送り、その働きぶりに一喜一憂する。

やがて人々は気づくだろう。「動画サイトでちゃんとしたプロの試合を見た方が面白い」と。

当然のように本作は話題作として認められ、ファイソと横並びになってKOTY2020の切符を手にしたのである。

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年が明けてファイソの処遇も定まり、住民の意識が総評へと向かい始めた1月半ば、滑り込むようにしてスレに持ち込まれたタイトルが、本年のトリを務める『爆丸 チャンピオンズ・オブ・ヴェストロイア(爆丸)』であった。
ロープライスのお手軽クソゲーが跳梁跋扈する中、突如として姿を現したフルプライスクソゲーに住民は盛り上がり、2月上旬には選評が書きあがる。

「爆丸」とは、2006年より展開された玩具シリーズと、これと連携するTVアニメなどからなるメディアミックス作品群だ。
タカラトミーより打ち出された企画でありながら当初日本での人気は振るわず一度畳まれた一方、海外では順調に売り上げを伸ばし、逆輸入的に日本で企画が再始動したという珍しいコンテンツだ。
この作品も開発はアメリカのWayForwardであり、つまるところ「洋ゲー」と言うことになる。

まずは基本的な戦闘システムを紹介しよう。

プレイヤーは最大3体の爆丸でチームを編成し、それぞれに4つずつ、エネルギーを消費するアビリティを装備させることができる。
バトルが始まると双方の爆丸が、10mはあろうかという巨大なモンスターとしてフィールド中央に召喚され、勝手に小突き合いを始める(が、ダメージは発生しない)。
一方でPCも見ているだけではない。PCは「ブローラー」として爆丸の足下をチョロチョロと駆けずり回り、周囲に出現する「爆コア」を拾って爆丸に投げつけることでエネルギーを供給するのである。
そしてエネルギーを十分に蓄積したうえでアビリティの使用を指示すると、ここでようやく有効な攻撃が発生するのだ。

問題はCPUの爆コア集めの挙動がかなり非効率的で、近場の爆コアを無視して遠くの爆コアを拾いに行ったり、エネルギーの高い爆コア落ちているのにエネルギーの低い爆コアに向かったりしてしまう。
このためエネルギー供給レースは基本的にプレイヤーが有利であり、するとアビリティの回転率もプレイヤーが上回り、ひいては試合全体も常にプレイヤーの有利に運ぶ。
レベルもサクサク上昇していき、集中的にレベルを上げるとストーリー中盤には上限の40に達してしまうほど。

こんな調子だから戦術的工夫は全く必要ない。
属性相性やバフ、デバフと言った諸要素も展開に大きな影響を及ぼさず、高火力アビリティのゴリ押しだけで戦闘を突破することができる。

もちろんヌルゲーであることが必ずしも悪いことではない。特に本作は子供向けのキャラゲーであるため、難易度は低すぎるぐらいがちょうどいい、と言う見方もあるだろう。

問題なのはヌルゲーを蹂躙してやる爽快感も今一つ、と言う点だ。

先述したように本作の戦闘は二段構えになっており、駆けずり回って爆コアを集めてからでなければアビリティを撃つことができない。
このせいで試合が間延びし、楽勝のバトルでも5分程度かかってしまう。
当然その時間の大半は爆コア拾いの時間であり、高火力の必殺技で敵を次々吹っ飛ばしていく気持ちよさは感じられない。
光る地面を追いかけてフィールドを走り回り、ボタンを押せばやがて相手は死ぬ。
戦略も駆け引きもなければ爽快感も得られないこの虚無性が、本作のクソ要素の根幹をなしている。

戦術性が全く必要ない火力技によるゴリ押しと、そのために強いられる爆コア集め…こうなるとゲームとしての主従が逆転してくる。

つまり本作で行われている競技は爆丸バトルではなく、1対1の玉入れ競争だ。
爆コアという名前の風変わりな「玉」を、爆丸と呼ばれる騒がしい「カゴ」に投げ入れ、最終的に投げ入れた玉の数と種類によって勝敗が決するわけだ。
お世辞にも強敵とは言い難いCPUを玉入れ競争で次々に下していく「玉入れチャンピオンズ」こそが、本作の実態なのである。

戦闘以外の部分を見ても問題点は多い。
上述したシステムはアニメや玩具とは幾分異なったものとなっており、アニメからの登場人物はチュートリアルに一人登場するのみ。
登場爆丸も基本形16体に属性ごとのカラバリを5種類用意することによって80種類以上と嘯いている有様で、キャラゲーとして十分なボリュームとは言い難い。

更には本作もまた、今年の流行に倣ってしっかりと翻訳に不備を抱えてきてくれた。
直訳してしまったのか日本語として分かりにくい表現が多発しているのみならず、訳し漏れも散見されており、誤字も標準搭載なのでせっかくの王道ストーリーに水を差されてしまう。

このようにRPGとして、キャラゲーとして、全方向へ周到にクソ要素を配置された玉入れチャンピオンズは、2020年最後の参戦者となったのである。

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ケンタ、ドリキャン、ファイソ、テニス、爆丸、五者五様の話題作がここに出揃った。

地上に具現した地獄の霧がリアルを覆い、誰もが震えて我が家にこもる中、ここに集った別種の魔物たちが、アンリアルに残された最後の安息すらも奪おうとしたのだ。
ある者は輝かしいメダルによって自身を飾り立て、ある者はその手軽さを強調して食指を誘い、ある者は子供の目を引く魅力的な玩具に変装し、汚物をその手に掴ませようと画策する。
卑劣非道の悪魔たちによる熾烈な争いが繰り広げられ、最も多くの怒りと絶望を世に生み出したのは――――――

『ファイナルソード』である。

振り返ってみれば、今年も昨年同様「無」を武器とする作品が目立つ一年となった。
ドリキャン、テニスの圧倒的な「無」は言うまでもない。
ケンタもクソローカライズの果てに残されたのは何ら心に響くことのない不条理シナリオのみであり、その性質は圧倒的虚無なのである。
そして爆丸も、その根幹たるバトルの様態が虚無的な玉入れである以上、やはり虚無ゲーに該当する。

彼らと比較すれば、ファイナルソードは明らかに完成度が高い。
ゲーム中に用意された様々な選択肢、敵を打倒するために要求される戦術判断、状況によっては快楽すら生じさせるこの作品は、客観的に評価すれば他の作品より優れているとすら言っていい。

だからこそ、この作品は大賞を授かるべきなのだ。

我々は、今一度「クソゲー」とは……あるいは「クソ」が何を意味するのかを考えなくてはならない。
「クソ」とは単に、客観的な欠陥の大きさを指す蔑称だっただろうか?
血の通わない理詰めの議論の果てに、大勢の合意に基づいて与えられる称号だっただろうか。

そうではないはずだ。

「クソ」とは心の叫びであり、プレイヤー個々人の胸に生ずる主観的な感想に過ぎないのだ。
ゲームをプレイしクリアする、その過程で生ずるフラストレーションがあまりに大きくて、つい口からこぼれてしまう下品な悪態こそが「クソ」なのだ。

その頂点を決めようというKOTYにおいて、客観に逃げることは許されない。
我々は理論的に作品の欠陥を算定するのではなく、プレイヤーの視点に立ってその主観を想像しなければならないのである。

根本的に理解が困難なケンタ、ゲームとして最低限の体裁すらも怪しいドリキャン、「プレイ」が成立してるかも疑わしいテニス、無為乾燥な玉入れRPGと化した爆丸。

昨年総評の言葉を借りれば「顔を背けてそれで終わり」なこれら作品に対し、ファイナルソードは容易に顔を背けさせてはくれない。

クソ要素の隙間に絶妙なバランスで散在するささやかな快楽がプレイヤーのモチベーションを高め、クソの山を登る活力を与えてしまう。
わずかに甘い汁を吸わされたプレイヤーは、その先に更なる甘味を期待せざるを得ない。
その先で理不尽の連鎖にくじけそうになったころ、ファイソは期待に応えてすかさず次の飴を提供し、もっと美味いものがあるぞとプレイヤーの背中を押すのである。

そうしてプレイヤーの精神を強烈にマヒさせ、下山という選択肢が脳裏から消えうせたころ、ファイソはついに本性を現し、クソの雨を浴びせてくるのだ。
半ば正気を失ったプレイヤーたちに顔を背ける選択肢は浮かばない。
今や目の前に見える頂上を目指して猛進し、嵐に正面から挑んでいく。
そうして登頂したころに彼らはようやく気付く。
己の肉体がどれほど疲弊し、そして心をどれほど摩耗させてしまったのか……

わずかな美点が混ぜ込まれたクソの塊は、純粋なクソより一層強力に我々をいたぶるのである。

我々を新たな真理へと導いた伝道者『ファイナルソード』と、その生みの親であるHUP Gamesに、最大級の感謝と、そして大賞の栄誉を贈ることとする。

――――――――――――――――――

48ショック、太平洋の嵐、これまで幾度となく変革を迎えてきたKOTYは、DL販売の発達によって新たな変革期を迎えた。

低下した参入ハードルは恐るべき魔物の襲来を引き起こした。
商品未満の作品が次々と参入し、最低限の完成度を備えているというだけでクソゲーたちが次々と跳ね返されてしまう……
据え置き版にもついに「修羅の国」の門戸が開いたのである。
我々は苦難の新時代に立ち向かい、これに適応せねばならない。

だが新たな時代に挑む時こそ、過去に目を向けるべきなのだ。
かつての大賞作品たちがどれほどの苦痛と憎悪を生み出したのか。
負の感情の大渦に、先人たちがいかに立ち向かい、これを束ねていったのか。

客観に逃げてはいけない。
機械になってはいけない。
我々は常に人としてクソゲーに向き合い、怒り、憎み、悲しまなければならない。
積み重なった負の感情を乗り越えた先にこそ、KOTYが目指した「笑い」があるのだから。


最後に、本年度覇者である『ファイナルソード』の言葉を借りて、我々スレ住民の覚悟を示すこととしよう。

「クソゲーはこの俺たちの手で片づけてやる!!!」