2016年 総評
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総評案1 (古き良き時代の冒険譚)

※現在、総評案2との合成案が暫定総評になっております。
2016年 総評


2015年のKOTY(クソゲーオブザイヤー)は、空前絶後の二大問題作による正面衝突であった。
2度の変身を遂げ、KOTY史上最悪とも目される「賽の河原バグ」を生み出した「クソゲー・ビッグバン」、『アジノコ』。
「テトリス」の仕様の隙を突き、「時間消失バグ」によってプレイヤーを恐怖の渦へ陥れた「神話の破壊者」、『テトアル』。
天地鳴動の激戦は見事、『アジノコ』の勝利に終わり、KOTY史にまた一つ新たな伝説が刻まれた。

その一方、据置機KOTY史上最長となる4か月間の審議を終えたスレ住人の胸中には、
名状しがたい、悔やみのようなものが残っていた。

なぜ、このゲームは作られたのだろうか。

触れるたびに明らかになる崩壊したゲームバランス。
手つかずのまま、修正を放棄されてしまったバグ。
造物主に愛されなかったゲームの末路がそこにあった。

もし、ゲームにも命という名の責任の重さがあるのならば、
捨てられた種を拾い集めて、せめて我々がその行く末を見届けてやりたい。

そんな弔いの念を乗せた、厳かなレクイエムが2016年のKOTYの幕開けを告げていた。

***

4月、正体不明の入電がスレ住人に衝撃の事実を告げた。
にわかには信じがたい内容だった。
「あの男」がやってくる、死にたくなければ今すぐにスレを出ろ、と。
顔面蒼白になるスレ住人。しかし……時すでに遅し。
ふと窓の外を見やると、こちらに向かって銃を構える男がいた。

KOTY始まって以来のビッグネーム、
PS3専用DLソフト、『RAMBO THE VIDEO GAME』(以下、「ランボー」)。

「ジョン・ランボー」……言わずと知れた戦争アクションの代名詞的存在。
かつて米国特殊部隊での戦闘訓練を受け、ベトナム戦争で祖国のために戦った帰還兵である。
鍛え上げた肉体でしか己を語れない不器用な生き様と、
ひとたび戦場に出れば見る者を魅了する超人的な戦闘アクション。
そんな一癖あるヒーロー像は爆発的なヒットを生み、80年代に発表された3部作は瞬く間に世界に旋風を巻き起こした。
その影響は今日でも残っており、海外ゲームにおける「ランボースタイル」とは日本語における「無双プレイ」に相当する。

そして、そんなランボー3部作のゲーム開発を手掛けたのが、『ヘビーファイア』シリーズの開発で高名な「TEYON」。
『ランボー』原作を映画界のレジェンドとするならば、『ヘビーファイア』はクソゲー界のスーパースターである。
超難度とクソローカライズ、ヘボ演出とゴマ塩程度のストーリーをコンクリートミキサーに掛けてぶちまけた、
その内容は、言うなればガンシューティングゲームの最底辺(ボトムズ)。
据置機部門のKOTYでは2012、2013と2年連続ノミネート、携帯機部門では2012年に大賞を排出し、
今もなお、当時スレから検証に出向いた帰還兵たちの心の傷は癒えていない。

さて、前代未聞、光と闇の超一流同士のタッグ……果たしてその運命や如何に、と言いたいところだが、
プラスとマイナスの掛け算がどうなるか、今さら語る必要もあるまい。
今、哀悼を込めて、悪堕ちしたランボーの成れの果てを見ていこう。

まずは、前作までの最大の問題点であった【戦場のリアリティ】

旧作でプレイヤーを悩ませたストイックすぎる≪ヘビーファイア哲学≫は、今作でさらに強化されている。

本シリーズの問題点は、「敵を全滅させるまでその場から動けない」というガンシューティングのゲーム性に、
「必ずしも隠れられないし、隠れても撃たれる」という理不尽な現実主義路線を混ぜてしまったことだった。
だが今作ではそれを改善するどころかさらに強化し、「隠れていると敵が遮蔽物をぶっ壊して迫ってくる」。
「敵やアイテムが背景に紛れている」というリアル志向もさらにレベルアップし、「いきなり手榴弾が飛んできて死ぬ」。

また、演出面でもリアリストぶりは健在だ。
例えば、映画1作目で、かつての上官からの説得に対してランボーが涙ながらに帰還兵の苦しみを訴えるシーンに、
映画2作目、ベトナムで行動を共にしていたヒロインが銃で撃たれ、ランボーと最期の別れをするシーン……
これら感動の名場面は、「戦場にお涙頂戴は必要ない」とばかりに徹底的にカットである。
音声や効果音についても、敢えて音質調整せずに映画の原音を用いることで、戦場での不明瞭な聞こえ方を忠実に再現している。

そして、≪ヘビーファイア世界の洗礼を受けるランボー≫についても味わい深い。

ランボーと言えば「不死身」のイメージが強いが、本作においてはただの一兵卒だ。
例えば、原作のランボーはロケット弾を撃ち込まれて生き埋めにされても問題なく復活を遂げるのだが、
本作においては火炎放射で焼死、自分の投げた手榴弾で爆死と、頓死に次ぐ頓死。
アクションパートでは、一つボタンを押し間違えただけでその辺の雑兵にさっくり刺殺される失態も見せてくれる。
ランボーというよりは「裸ん坊」と言うべき耐久力の無さに、原作ファンは早々にこのゲームから怒りの脱出を試みるだろう。
なお、そんな虚弱なランボーを強化するためには、戦場を離れて再現VTR風のミニゲームを延々と繰り返すことを強いられる。
もはや新兵いじめを受けている心境に近く、ランボーではなく辛抱が本作のテーマでは……と邪推せざるを得ない。

と、ここまではランボーをいつもの「戦場のリアリティ」で容赦なく上塗りしただけのように聞こえるかもしれない。
ところで、先ほどから述べている「戦場のリアリティ」と言えば、ランボーにも一家言ある。
興味深いことに、両者のアプローチは真逆だ。
映画『ランボー』シリーズは、「リアルらしさ」を追求したリアリティ。
映像に説得力を持たせるために、時には過激な演出や過剰表現などの「嘘」を織り交ぜることもいとわない。
対する『ヘビーファイア』シリーズは、先ほどから述べているように、「フィクションを否定する」リアリティ。
現実主義的な観点から演出やストーリーの「嘘」を叩き潰し、エンターテインメント性の薄さを自己正当化する。

相反する両者のスタイル……。
二つの「戦場のリアリティ」の弁証法は、より高次元な概念を生み出した。
それこそが、今作固有の新機軸、

【戦場のリアル・リアリティ】だ。

まず、白熱の≪リロード・ルーレット≫システムを紹介しよう。

一般的に、ガンシューティングでは弾切れを起こすとリロードボタンを押す必要がある。
だが、それではランボーの強さがリアルに描けていない。
彼ほどの達人なら通常の2倍の弾数を装填できるのではないか?
……とでも考えたのだろうか。本作の製作陣は、リロードアクションにルーレットゲームをつけた。
目押しに成功すれば2倍、失敗すれば半分、止まるまで待っていれば通常通り充填されるというボーナス要素だ。
そこまではまだいい。
問題は、そこでふと我に返って、『ヘビーファイア』特有のフィクション否定が始まることだ。

「戦場のど真ん中でルーレット遊びする狂人が現実世界のどこにいるんだ?」

よって、ルーレット中でも敵の猛攻は待ったなし。
結果として、弾切れと同時になすすべなく蜂の巣にされる無残なランボーが爆誕することになった。

もう一つの目玉要素が、≪怒りモード≫だ。

今作には「怒り」ゲージがあり、それが規定値に達すると一種のトランス状態である「怒りモード」に移行することができる。
発動中は視界が赤く染まり、あたかも脳内麻薬が異常分泌されているかのごとくゲーム画面がスロー再生になる。
ランボーの超人性を描き出すにはおあつらえ向きの、気の利いた演出と言えよう。
だが、これも途中で製作者の『ヘビーファイア』魂が騒いだらしい。

「こんなものは脳内の錯覚であり、現実世界ではほんの一瞬の出来事でしかないだろう」

とでも言わんばかりに、持続時間を異様に短くしてしまった。
銃は何発か撃てるにしても、その他のアクションはせいぜい一度きりが限度。
ルーレットを回したり、手榴弾のピンを抜いて投げたりするだけで怒りゲージが空っぽになってしまうランボーを見ると、
映画で見せたあの荒々しい怒りはどこへ行ったのかとため息せざるを得ない。

「いつものヘビーファイアじゃねえか!」と言う絶望感から一転、期待を持たせたかと思うと、
「やっぱりいつものヘビーファイアじゃねえか!」と再び心をへし折りに来る。
これぞまさしく、戦場心理に長けたプロフェッショナルのなせる業であると言えよう。
ちなみに、本作は原作のネームバリューをもとに、PlayStationストアの販売ランキングで最高2位を記録しており、
一般人の戦没者の数も相当数に上るものと推測される。

ともあれ、こうして悪に染まった稀代の戦士は瞬く間にスレを火の海に包み込んだ。
『ヘビーファイア』関連作品によるスレ制圧は、これで三度目。
しかも、また「門番」である。
なお、そのあまりにも危険な存在感に政府筋からもストップが掛かったのか、
本作は日本での配信開始からわずか9か月後に販売停止されてしまったことも付記しておこう。

***

絶対的な門番が君臨するとき、外敵からの脅威は遠いものとなる。
圧政と引き換えの、心休まる平和、支配される特権。
「ランボーのくびき」とでも言おうか。

気が付くと、7か月もの時が経っていた。
家畜の平穏にすっかり慣れ、牙を抜かれたスレ住人たちは、
ふと、外気の寒さに触れて我に返る。

12月。
「あの時期」がやってくる。
スレ住人の瞳には、再び炎が灯っていた。

***

激動は、地鳴りとともにやってきた。
猛々しい咆哮とともにコロッセオの門をぶち破る、怒れる獣。
意外にもそれは、「牛」だった。

PS4専用ソフト、『TORO -牛との戦い-』。

表題のTOROとはPSワールドのマスコットキャラクターではなく、スペイン語で「牛」を意味する単語。
「闘牛士シミュレータ」という、これまでになかった全く新しいジャンルからの参戦である。

そもそも、「闘牛」とは何か?
この機会に基本事項を押さえておこう。
闘牛はいくつかの演目に分かれたショーであり、大別すると三つの見どころがある。
一つ、闘牛士以外が登場し、槍や銛を突き刺して牛の闘争心を煽る、「前座」のパート。
二つ、よく知られている「闘牛士」が登場し、暴れる牛をマントで華麗に翻弄する、「演舞」のパート。
三つ、最後にやってくるのが闘牛士が牛に止めを刺す、「決戦」のパートだ。
ここで重要なのは、闘牛の本質がその名の通り「牛との闘い」であること。
牛は強く、恐ろしい。
力任せに繰り出す角はたやすく人間の臓腑を貫くし、500kgを超す体重を支える強靭な足は一撃で人間の骨を打ち砕く。
対する闘牛士は、スペイン語で「マタドール」と呼ばれているが、これは英語で言うところのmurderer、
つまり「殺害者」である。
両者は命がけだ。だからこそ、人間の勝利は観客たちにかけがえのない生の歓びをもたらす。
それこそが闘牛がスペイン人の国民娯楽として親しまれてきたゆえんであると言えよう。

と、まぁここまで長々と闘牛の何たるかについて話をしてしまったが、実は本筋とはあまり関係がない。
というのも、本作は「闘牛」を忠実にゲーム化したものではない。
言うなれば、闘牛ではなく「TOGYU」……
かつてスペイン出身の画家サルバドール・ダリが、現実を超えた「シュール」な絵画によって社会に問題提起したように、
本作もまた、闘牛とゲームの常識に真っ向から挑んだ現代アートと評した方が適切なのである。

では、内容について見ていこう。

第一に、本作は
【プレイヤーが闘牛士になれるわけがない】
という正論をぶち上げてゲームの常識に反駁する。

本作は「演舞」パート中心の構成になっており、
「難しい技を成功させること」、
「連続して牛の突進をかわすこと」、
この二点がゲーム性の肝になっている。
そう聞くとプレイヤーとしては、様々なマントさばきで牛をかわし続ける爽快感のようなものを想起するだろう。
その幻想を、本作はねっとりと、論理的に、ぶち壊していく。

まず、≪難しい技を成功させること≫について。
牛を避けることを可能にするのは、日ごろの練習によって鍛え上げた「技術」だ。
ところが、この技術は本来スペイン国内の「闘牛学校」で学ぶものであり、素人に簡単に伝授できる代物ではない。
そういうわけで、本作では技の発動可能タイミングが謎に包まれており、多くの検証者が挑んだ今でも解明されていない。
ゆえに、『マインドシーカー』のように第六感のみで挑むほかない。

そしてもう一点、≪連続して牛の突進をかわすこと≫
これは、技を連続で繰り出すのであれば一度も失敗してはいけない、ということを意味する。
たとえ華麗な大技に成功したとしても、その直後に流血退場する闘牛士を誰が評価するだろうか?
そういうわけで、本作では技のコンボを試みている最中、一度でも牛に追突されると獲得スコアがゼロになる。
ゆえに、連続技をいちいち中断するか、失敗する危険の少ない技だけをつなげるしかない。

以上二つの結論から導き出されるゲーム性は、「シュール」の一言である。

一つ、運任せで大技を出し、一度成功したらガン逃げし、コンボが途切れるまで待つ。
二つ、コンボ数ノルマを稼ぐために、一番最初に習う「その場で半回転するだけ」の地味な基本技だけをひたすら繰り返す。

これが「TOGYU」の神髄だ。
神聖なる闘牛の門を軽々しくも叩いてしまった門外漢が強いられる、ポイント稼ぎ行為しか許されない氷点下の塩試合。
あるいは、闘牛たりえない空虚なチキンファイト。
ゲームとして面白いかどうかだけで言えば全く面白くないが、現代アートなので仕方あるまい。

そして本作はゲームの常識に喧嘩を売るのみならず、
【牛との戦いを否定する】ことで、闘牛の常識に対しても疑問を投げかける。

先に述べた通り、現実の闘牛において、牛は殺される。
この点は動物愛護の観点から常に非難に晒されており、バルセロナを擁するカタルーニャ州では闘牛禁止法が可決されている。
だが、そんな現実世界の闘牛文化が苦悩する姿を、TOGYUは一笑に付す。

「牛が死ななければどうということはない」のだと。

例えば、闘牛における牛は、興奮を促すために槍で突かれ、銛で刺される。
牛は、血を流しながら死に向かって走るのだ。何と残酷なことだろう……。
だが安心してほしい。
TOGYUでは槍で突く場面はないし、銛を刺す場面でも全く血が出ておらず、
よく見てみると麺伸ばし棒のような器具でマッサージを試みているだけだとわかる。

そして、TOGYUSHIも闘牛士とは違い、殺伐ぶりを微塵も感じさせない好演を見せる。
そもそも牛が死なないのなら、人が命を懸ける必要もあるまい。
ステージ中で牛にハリケーンミキサーを見舞われ、どう見てもヤバい角度から地面に突き刺さったりもするが、心配ご無用。
何度でも無傷で起き上がるところを見るに、スペイン人一流のリアクション芸のようだ。
おまけモードでは、牛に突撃されて迫真の断末魔とともに70m以上吹っ飛ぶプロ根性を見せてくれる。
また、両者のふれあいを示す一幕として、演目の間の画面でTOGYUSHIが牛に近づくことでそのまま同化することができ、
「うわぁ……牛さんの中……すごくあったかいナリ……」 [外部リンク]と、アニマルセラピーな時間を過ごすことができる。
プレイヤーが童心に返ることができるように、全編を通じてグラフィックが20年前の初代PSレベルである点もポイントだ。

やや脇道に反れたが、最後に核心に触れよう。
闘牛と言えば演目の最後の最後、「真実の時」とも呼ばれる「決戦」パートが最高に盛り上がるところだ。
最後の力を振り絞って突撃する牛、
刺突剣(エストック)を構えてそれを迎え撃つ闘牛士。
両者が交錯する瞬間、一突きのもとに牛の生命に終止符が打たれる……のだが、
冷静に考えると、共に友情を育んだ牛に対してそんな狼藉を働くなどもってのほかである。
そこで本作がどうしたかというと、なんと、牛が刺されたかと思われた刹那、
絶妙なカメラワークで牛の姿がフレームアウトし、何が起きたのか全くわからない仕様になっている。
一見すると、動物愛護の観点から牛を殺す瞬間の様子を姑息にも隠蔽したかのようにも見えるが、その解釈は誤っている。
これはおそらくスタッフの心の叫び──

闘牛としての体裁を保つために絶命シーンを入れざるを得ない……。
だが、なんとかして牛を守護(まも)りたい……。

そんな苦悩から生まれた、牛を殺したと思わせつつ無傷で生還させるためのトリック映像なのだ。
なお、そういった憶測はともかくとして、無気力試合をさせられた最後にこれを見せられるプレイヤーの心情は皆まで言うまい。

作中では闘牛知識に関して事細かに、精力的に解説しており、製作陣の闘牛に対する愛情が十二分に読み取れる。
だが、できあがった作品は、ゲームと呼ぶにはあまりにも前衛的過ぎた。
いつの時代も芸術というものは一般人に理解されないのが常だ。
フラメンコギターの感傷的な旋律が、低評価のレビューが増えていく本作の行く末を物語っていた。

***

スペインからの動物兵器を何とか凌ぎ切り、ほっと胸をなでおろしたスレ住人であったが、
その笑顔は固く、頬には一筋の冷たい汗が伝っていた。

おかしい……。
尋常ならざる気配が消えていない。

気が付くと体が震えていた。
冬だから、と言うにはあまりにも激しい悪寒。
気づきたくなかった真実。

「年末の魔物」は、別にいたのだ。

***

12月15日、永遠の闇がスレを包み込んだ。
全てを閉じ込める夜のとばり、
凍てつく死の静寂。

PS4向けシミュレーションRPG、
古き良き時代の冒険譚』(通称「古き良き」)。

本作の特徴は、自らぶち上げた【崇高なコンセプト】にある。
ここに、公式サイトの内容を引用しよう。

1つ、ルールはわかりやすくシンプルに。
2つ、小難しい話や鬱展開にはならず。
3つ、誰でも満足感を持ってクリアできる難易度で。

続いて、彼らの雄弁はこう締めくくられる。

全てのプレイヤーが途中で投げ出すことなく、
「あぁ、おもしろかった」という思いを抱いたまま終えられるゲームにしたい。
ゲームをプレイするのが億劫だと感じている人にこそ、本作をプレイしてほしいのだ、と。

……なるほど、けだし名演説だ。
だが、その言葉に実力が伴わなければ、特大のブーメランが彼らの脳天に突き刺さるだろう。
して、結果はどうなったか。
この場に名を連ねている時点で多くは語るまい。

「実録、いかにしてクソゲーは生まれたか」

理想に燃えた製作者に敬意を表して、
『古き良き』の目指したものと、行きついたところを一つ一つ丹念に紐解いていこう。

まず前提を置こう。
本作のジャンルは、『ファイアーエムブレム』などでよく知られる「シミュレーションRPG(SRPG)」である。
SRPGの醍醐味は、大別すれば二つ。
戦闘ユニットごとの相性、地形などの要素が複雑に絡み合う、シミュレーションゲーム由来の「戦術要素」と、
RPGならではの「ストーリー性」だ。
この両輪のいずれか一方でも欠けてしまうと、大きく面白さを損ねることになる。

しかるにまず、一つ目の呪縛、
【ルールはわかりやすくシンプルに】

本作はあまりにもシンプルさを追究した結果、SRPGというよりも
≪新ジャンル:レベルを上げるだけのゲーム≫と化してしまった。
順を追って説明しよう。
本作では、戦闘に関するランダム要素がゼロであり、指揮官を除く手駒は敵味方共通の5種類のユニットのみ。
ゆえに、取るべき行動パターンは常に決まっており、バリエーションにも乏しく、敵味方でほぼ共通となる。
したがって、
「戦術云々以前にパラメータが高い方が当然に勝つだけであり、レベル上げくらいしかやることがない」。
以上の三段論法が、本作のゲーム性の全てなのである。
この事実は世界観にも組み込まれており、
ゲーム序盤では「詰まったらレベル上げしてね」というド直球のアドバイスをされ、
行く先々のボスからは「このステージの適正レベルは〇〇だぜ」というメタ発言が飛び出す。
不足したレベルをステータス上昇魔法でカバーすることもできるが、そのMPを捻出するためにも結局レベル上げが必要だ。
なお、念のために断っておくが、レベル上げと言ってもユニット育成の自由度は特にないため、
本作においては本当にレベルを上げるだけの作業にしかならない。
ライトゲーマー向けに遊びやすく作ったと喧伝する本作であるが、
『SIMPLE 2000 THE レベル上げ作業』と揶揄されるゲーム性が一般人に受け入れられるかは甚だ疑問である。

そして二つ目の呪縛、
【誰でも満足感を持ってクリアできる難易度で】
これが、戦術要素を決定的に粉砕してしまう。

どんなプレイヤーでもクリアできるように、本作が出した答え……。
それが、掟破りの≪後出しジャンケンシステム≫である。
本作では、交戦前に敵味方ともに「サポートカード」を使用することができる。
「ダメージ無効化」や「HP/MP全回復」など、強力な切り札が使えるこのシステムであるが、
一つ、致命的な欠陥がある。
相手AIが何を出すか、プレイヤー側には事前に丸わかりなのだ。
よってこちらは、相手のカードにかぶせて有利なカードを選択するだけ。
加えて、前述のレベル上げの過程で「相手のサポートカードを無効にする」というジョーカーが大量に手に入ってしまう。
「満足感」というよりは、こちらは何一つ悪くないのになぜか「罪悪感」が残る事態になっている。

そもそも「戦術」とは、敵との真剣勝負によって生まれるものだ。
そして、そこにはギャンブルと決断が不可分に存在する。
過去に『ファイアーエムブレム』シリーズや松野泰己氏のSRPGをプレイしたことのある人は、思い起こしてほしい。
「この一手が本当に正しいのか……」と、恐怖と恍惚感が渾然となる、こちらターン終了の瞬間。
「相手はどう出るか……」と、リセットボタンに手を掛けながら勝負の行方を見守る、敵ターンの時間。
往年の名作たちは、生々しいスリルを与えてくれただろう。
だが、そんなものは『古き良き』には存在しない。

「戦術はレベルによるゴリ押しのみ、相手の秘策は筒抜け」。

全て勝利が折り込み済みの、全く無感動の作業なのである。

ここまでに戦術シミュレーション要素という車輪がパンクしていることを述べてきたが、
残るもう一方のRPG要素、「ストーリー性」さえあればギリギリ体面は保てるかもしれない。
しかし、ここでまた自身に課したコンセプトが足かせとなる。

三つ目の呪縛、【小難しい話や鬱展開にはならず】
ここに大問題がある。

何よりもまず、
≪中身がない≫
「小難しい話」をなくそうとして、「話」そのものがなくなっている。
本作のストーリーはただ一言、
「家族みんなで王家の墓に行って、王位争奪戦してみました」
だけで済む。
かつて『ラストリベリオン』は、町内会の中心で世界の滅亡を叫ぶような矮小なシナリオが注目を浴びたが、
本作のスケール感はそれをも下回る、「墓場で家族喧嘩」だ。
なお、洞窟の壁の材質やユニットカードの正体など、中二病特有の無駄に細かい設定が豊富な点でも両者はよく似ている。

それに加えて、「鬱展開にならないように」とギャグやメタ発言をいちいち挟む、
≪変なノリ≫
ストレートに言おう、ドン引きである。
まず、「王家の墓」や「古き良き時代」と言ったキーワードで中世ファンタジー世界を想像したプレイヤーは、
のっけからスマートフォン状の物体を手渡される超展開に目を疑うだろう。
続いて、王位争奪戦の参加者から語られる動機が、もれなく酷い。
曰く、
「王になってモテたいから」、
「女王になってニート生活したいから」、
「王位とかどうでもいいけど、俺が勝ったら部屋の掃除してくれる?」
といった具合だ。
味方サイドも味方サイドで、
「わかったわ、兄さんがそんなにモテたいなら二次元の嫁を紹介したげるわ」などと不要なツッコミを返し、
疲弊しきったプレイヤーの額に血管を浮き立たせる。
製作者にはゲーム製作以前に、
TPOをわきまえずにネット掲示板のノリを披露するとどんな空気になるかを学んで欲しかったものだ。

極め付きに、
≪オチがない≫
やがて辿り着いたダンジョン最奥部で待ち受けるのは、
「実はエレベータがあったんだ」という脱力物のご都合展開。
それまでのステージボスである家族が集結し、呆気に取られるプレイヤーをよそに一家団欒し始める。
そんな中、スタッフロールもなく、次の一文がシナリオの最後を締めくくる。

「彼の治める国はどのようなものになるのでしょうか。それは皆さんのご想像にお任せします」。

本作の公式サイトでは
「すっきりした気分で終わらせることができないゲーム」
を批判しているが、
「人の振り見て我が振り直せ」
ということわざがこれほど合致する例はないだろう。

かくして、高邁な理想がことごとく裏目に出ることで、本作は見事なまでにSRPGのうまみを全て失ってしまった。
果たして『古き良き時代の冒険譚』という表題は何だったのか……。
当然のごとく購入者からは不満が噴出したが、製作者にとってみればどこ吹く風。
作品が発売して以降、宣伝もせずにTwitter上でメガドライブ版『アドバンスド大戦略』のプレイ日記を展開し、
あまつさえ、業者にアカウントを乗っ取られてレイバンのサングラスの宣伝をし始めるという肝の太さを見せていたという。
いずれにせよ、もしプレイヤーが本当に古き良き時代の名作を求めているのであれば、
本作の4分の1ほどの価格で売られているゲームアーカイブスを漁る方が100倍益体があると言えよう。

***

いささか長くなってしまったが、以上が本年のノミネート作全てである。

表と裏の超一流コラボが生み出したバイオニックソルジャー、『ランボー』。
スペインから世界に吹き荒れるアートの風、『TORO』。
理念を掲げて蜂起した新世代の革命軍、『古き良き』。

今、ここに稀代の3作品による、天下三分のクソゲー三国志が幕開けした。

降り注ぐ矢の雨、海を割ってほとばしる炎、吹く神風。
単騎で前線に躍り出る勇者、竜巻を起こす猛牛の群れ、空から降る極大火炎呪文。

三者三様の計略で混沌と化す戦場を見事に平らげ、天下統一の旗を立てたのは……

古き良き時代の冒険譚』である。

なぜ、猛者ぞろいのノミネート3作の中にあって、本作が勝利したか?
それは、このゲームの真の姿が、プレイすればするほどに凶悪さを増して行く、

【君と響きあうクソゲー】

であるからだ。

この言葉の真意を伝えるにあたって、まず、ほかの2作と『古き良き』の決定的な違いを説明しよう。
ズバリそれは、『古き良き』には「プレイヤーの成長」が存在することだ。
『ランボー』のような「理不尽ゲー」においては、修練よりも「死なずに済むまでやり直す」だけの試行回数がモノを言う。
一方、『TORO』はそもそも何をもって技の成功が判定されているのか、検証者の誰にも解明できなかった。
これら2作に対して、『古き良き』には理不尽な不確定要素もルールの破綻もない。
ゆえに、プレイヤーのスキルは順当に成長していく。
それ自体は普通のゲームにおいては歓迎すべきことなのだが、
先に紹介した本作の三つの「呪縛」を思い出してほしい。

一に、「レベル上げしかない」ゲーム性の無さ。
二に、「後出しジャンケン」で危なげなく完勝できる戦術性の無さ。
三に、「話に内容もオチもなく、変なノリにドン引きさせられる」ストーリー性の無さ。

すなわち、本作には遊び方の自由度がほぼなく、
リスクを計算する必要もなく、
読むべきテキストもない。
プレイヤーには考えるべき内容が何もなく、ただ、手を動かすのみだ。
すると、何が起きるか?

≪プレイスピードの果てしない加速≫である。

解き終わったパズルを何度も解かされるようなうんざり感とともに、プレイヤーの手際はどんどん良くなっていく。
何も考えなくとも次の一手が瞬時に思い浮かぶように、
はたまた、相手の動きが自動的に予測できるように。
たかだか十数時間のプレイングを通じて、プレイヤーはあっという間に本作を極めし古強者へと変貌するのである。
と、ここまでプレイヤーの変化について述べてきたが、話はそれにとどまらない。
同時進行的に、ゲームの側にも変化が訪れる。

≪ゲームスピードの相対的な低下≫だ。

プレイヤーの精神が加速すれば加速するほど、目の前のゲームの挙動がどんどん、鈍重に感じられるようになる。
そしてそれは、体感的なストレスに直結する。

キーレスポンスの異様な悪さやUIの不出来が、こちらの操作をいちいちせき止めるボトルネックに。
一挙手一投足に差し挿まれる省略不可能なアニメーションが、ゲームの進行を妨げる遅延行為に。
最初はさほど気にならなかった敵ユニット一つ当たりの思考時間が、蠅が止まるほどの長考に。

もともと存在した小さなクソ要素が、一つずつ、耐え難い苦痛に変質していくのだ。
かくして、クリアに至る前に多くのプレイヤーが忍耐力の限界を感じ、脱落してしまう。
プレイヤースキルの上昇に合わせて一つ一つの問題点が切迫感を増していく……
これこそが、本作を「君と響きあうクソゲー」と評したゆえんである。

最初は、突出した個性のない地味なクソゲーと捉える向きもあった。
本作を大賞に選出することに疑問を呈した者もいた。
だが、違う。
本作の強みは、プレイすればするほど重厚なクソのハーモニーを重ね上げていくこと。
最初は慎ましやかに始まり、終末に向かって徐々に、果てしなく苦痛のボルテージを高めていくその様は、
さながら、ラヴェルの『ボレロ [外部リンク]』を奏でるオーケストラのような壮大さであると言えよう。
素晴らしい独創性を見せてくれた本作の勝利を祝し、万雷の拍手とともに謹んで献杯したい。

***

2016年のノミネート作品に共通するものがあるとすれば、
【理想と現実の乖離】であろう。

これら3作の製作陣には明確に、「作りたいもの」、「こうありたいもの」があった。
「なぜ、このゲームを作ったのか」?
おのが信ずる理想のためにゲームを作ったのだ。
『古き良き』の理念については先に述べた通りであるが、
『ランボー』も、結果はどうあれ彼の強さを描こうとした意気込みは見えたし、
『TORO』作中の解説文には闘牛へのストレートな愛情が込められていた。

こういった理想と現実のかけ離れた異形のゲームを、我々スレ住人は愛を込めて「クソゲー」と呼ぶ。
だが、世間ではもう一つ、「クソゲー」の言葉が使われる場面がある。

【理想と理想の乖離】……メーカーとプレイヤーとで、思い描いた夢が違った時だ。

理想と理想の食い違いは、悲しい争いを生む。
大作主義が叫ばれて久しく、一つのゲームのプロジェクトが途方もなく大きくなっている現代、
メーカーはあれこれと注文を付けるプレイヤーの存在から目を背け、目の前の現実だけを見据えがちだ。
そして、プレイヤーは、実際の製品が自らの期待と違ったとき、その「がっかり」に耐え切れずに口汚く糾弾してしまう。

「こんなもの、クソゲーだ」と。

そうしてクソゲーという言葉が愛ではなく憎しみに染まるとき、プレイヤーもメーカーも、笑顔になれなくなる。

かつてジョン・レノンは、
国境も人種も宗教もなく、みんなが一つになれる、そんな理想郷の実現を訴えかけた。
いつの日かゲーム業界においても、プレイヤーと製作者が輪になって一つの理想を語り合えるようになった時、
「クソゲー」という言葉から負の側面が無くなるのではないだろうか。
この小さな夢がみんなの夢になるように、一人でも多く、平和な未来の姿を想像してみてほしい。

そんな理想論をささやかに願いながら、ある言葉で本稿を終えよう。
古き良き時代のSRPGの金字塔、『タクティクスオウガ』から、
祖国の理想のために戦い、最後まで人々に夢を抱いたまま果てた男、聖騎士ランスロットの遺した言葉である。

「君たちのようなゲームを愛する者同士が戦わなくともよい……そんな世界を築きたいものだな……」